Category Archives: 大学関係

自律的な学術公正性の確保に向けて(追記)

最近のSTAP細胞の論文についての調査委員会の中間報告や、その論文の筆頭著者の学位論文のことについてのさまざまな情報を知るにつけ、ますます学術界の現状に、そこに身を置く一人として、大きな責任を感じます。

先日、ある会合で以下のような意見を述べました。とくに今回の件を意識したものではなく、最近、見聞きしていたことからの発言です。

資料には、「次代を担う人材育成をしているのか」、また、「優秀な若手研究者が育ちにくいのではないか」ということが課題とされていますが、若手だけではなく、次の世代を育てるような研究者が育っているのか、ということが問題ではないでしょうか。つまり、研究はしているのかもしれませんが、次の世代を育てるような形で研究しているのかどうか。私は疑問に思います。特に最近の若い方が、「論文」は書けても、議論の場とか、文書をまとめるときに論理的な素養について「えっ」と思うようなことをたびたび経験しています。研究を通じて研究者を育てるという体制がとれているのかどうかということを強く意識すべきだと思います。研究体制そのものに対する欠陥というのがかなり現れてきているのかも知れません。こうした認識を持てるものかどうかも考える必要があるのではないかと思います。

研究に携わる者が一人の独立した研究者として自律的に責任ある行動をとることが前提となって、社会から学術界における研究の自由が認められているといえるでしょう。

半年ほど前から、これに関連する話題としていくつかの意見を書きました。これらは、いわゆる「研究不正」への対応だけではなく、学術界における「誠実さ」をもとにした自律的な公正性の確保が重要ではないかという考えを述べたものです。業績誇称や利益相反なども対象になるでしょう。

これらについては、4年ほど前にも書いたことがありました。

今回にも話題になっているような学位論文の剽窃問題に愕然として考えを書いてから、ずっと気になっていました。加えて、半年前には業績誇称などのことがきっかけで、学術界での自律的な活動の重要性を強く感じたのです。そのときには、今回のSTAP細胞のことなど知る由もありませんでした。

Retraction Watchのサイトに見るわが国の論文の撤回には驚きます。国際的にわが国の学術論文が信頼されなくなることは極めて深刻な事態だといえるでしょう。

研究者は、自ら学問への誠実さによって真理への畏れをもち、「学術公正性」を育むことが大事でしょう。それによって、次代の研究者を育成することができると信じています。

ピアレビューの陥穽

驚きました。いまもなお、といってはなんですが、こういうことは繰り返されるのでしょうか。

国立国会図書館のカレントアウェアネス・ポータルに
「SpringerとIEEE、機械生成されたでたらめな論文120本以上をプラットフォームから削除」という記事が出ています。

2014年2月24日付けのNature誌の記事で、SpringerとIEEEの商用プラットフォームに収録されている会議録論文の中に、機械生成されたでたらめな論文120本以上が含まれていたことが報じられています。現在はこれらの論文は削除されているとのことです。

もとのNature News 2014/02/24 は

Publishers withdraw more than 120 gibberish papers

にあります。

Computer Science 分野の論文生成システム(といってよいのかどうか?)SCIgen – An Automatic CS Paper Generator で生成した論文だということです。冒頭に

Our aim here is to maximize amusement, rather than coherence.

とあるように、まったくのおふざけなのですが、2005年にSCIgenの作成者がある会議に投稿したり、その後も、話題にはなったようです。

20年ほど前だったでしょうか、IEEEと並ぶ、米国の(というより、国際的な)Computer Science の学会 Association for Computing Machinery (ACM) の雑誌の記事として(もちろん、冗談交じりに)出たことがあったように記憶しています。この頃には、人工知能(Artificial Intelligence, AI)の話題であったのでしょうか。SCIgenでは、グラフや表も生成されるようですが、その前にはテキストだけだったと思います。

今回のSCIgen論文が見つかったのは、SCIgenで生成された論文かどうかを判定するシステムによるとされています。SCIgen detection Site というのもあります。2010年頃には、いんちき論文を検出するためのアルゴリズムが発表されています。

学術論文の発行、公表は通常、ピアレビューが行われます。つまり、“同業者”が相互に論文を査読して、新規性や独創性など評価に値することを確認した上で公開するわけです。しかし、この、「専門家に委ねる」というところに落とし穴があることは、たびたび指摘されています。本当に査読ができているのかどうか、ピアレビューというのが機能しているのかどうかということは、論文誌の信用に関わることです。ついうっかり、ということで偽装論文を見過ごしてしまうと、ランダムに生成したという論文までもが掲載されるということも起こりかねません。

1995年には「ソーカル事件」が話題になりました。翻訳版「『知』の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用」の副題にある「科学の濫用」は、学術界が社会に対する責任の危うさを示しているといえるでしょう。

論文の偽造だけではありません。身内で学会を作って論文を公表すれば、論文数を増やすことができるとか、実態のない国際会議をでっちあげて発表を募るといったことも目にします。いずれも、外形はもっともらしいので、疑いをもたない人たちには分からないでしょう。これも、ピアレビューの落とし穴でしょう。

学術の世界、また、科学者が社会から信頼されるためには、自らの誠実さに責任をもたなくてはならないといえます。

学術界における組織的ハラスメントへの怒りについて

最近の報道に見られる学術界の問題には、読者の方々はそれぞれに思いをもっておられることでしょう。頻繁に報じられる「研究不正」についても、研究成果としての論文の捏造、捏造(Fabrication)、改ざん(Falsification)、盗用 (Plagiarism)という、いわゆる FFP 問題からを超えて、利益相反といったことにも及んでいます。これまでに、「学術公正性」と「研究公正性」、また、学術界での利益相反についても意見を述べました。しかし、学術界においては、さらなる大きな問題が存在していることにも目を向けなくてはいけないと思います。この記事のタイトルを見て、身近に思い当たることがある方もいらっしゃるでしょう。報道されたこともあれば、そうでないものもあり得ます。

以前から、学術界において、いわゆる「権力争い」といった話題はありました。一般社会から見て、閉じた世界での抗争として扱われてきたように思います。決してこれを肯定するわけではないのですが、学問の世界での「流派」とでもいえる抗争があったようにも思われます。ひるがえって、最近は、学術界において、個人を対象とした理不尽ともいえる攻撃的な言動を目にします。それも、たんに個人と個人ではなく、組織の中心にいる一方の(複数の)人がもう一方の個人に対して打撃的な「仕打ち」を施すという、いわば、組織的なハラスメントです。学術界における「権力」というのは、いかにも異様なものですが、組織の中心にいるのが権力だと勘違いしているのか、情報を得たり周りに指示のできる立場を使って、個人を攻撃することさえ目にします。学術的な内容に関する議論ではないのです。こうした組織的なハラスメントの大きな問題は、根拠となる情報が一方に独占されていて、中立的で公正性のある判断がなされないところにあります。ときには、対象とされた個人の人格をも否定するようなことさえ見られます。

2014年の1月に報道された厚生省のJ-ADNIプロジェクトの件でも、2月になって告発した当事者の会見が報道されています。

しかし、なにより残念なことは、組織の中で関係する周りの科学者が、疑問をいだかないのか、意図的に見過ごそうとするのか、自らの問題だと捉えないことです。科学者は、批判的な眼で対象を捉えることから研究を始めることでしょうに、身近にあるこうした現象には他人事として保身に向かうのでしょうか。科学者は公正でなくてはなりません。科学者は社会の中で、そのようなProfessionだとして存在しているのだと思います。自らが所属する組織の中で、理不尽なことがあっても、怒りを感じないことが不思議でなりません。このことにも怒りを覚えます。ほんとうに残念です。

学術界が自律的に公正な科学者コミュニティを形づくるためには、まず、科学者自身の「誠実さ」(academic honesty)が求められるでしょう。なにも、研究者としての入口にいる若い人たちへ論文の捏造などを戒める教育で済ませられることではありません。その人たちに背中を見られている人たちの誠実な言動が大事だと確信しています。

日本学術会議の研究不正の防止策と事後措置に関する提言について

日本学術会議の提言「研究活動における不正の防止策と事後措置 -科学の健全性向上のために-」が2013年12月26日に出されました。文部科学省の取組については以前に触れましたが、今回の学術会議の提言は、研究者側から文科省の施策に応えようとするものなのでしょう。

提言の要旨には、これまでの日本学術会議における十数年の関連した審議や提言等の経緯を述べたあとで、今回の具体的な提言が書かれています。しかし、「・・・を行う」と述べられていますが、その主体がよく分からないし、最後に「・・・が必要である」と結語があるのは、他人ごとのように聞こえます。

要旨には、以下のように提言が述べられています。

これらを踏まえて、第22期科学研究における健全性の向上に関する検討委員会は、本提言「研究活動における不正の防止策と事後措置-科学の健全性向上のために-」で、我が国における世界最先端の科学研究の推進及びその健全化を目指して下記の提言を行うものである。

1. まず、研究不正を事前に防止する方策として、①行動規範教育の普及啓発活動を行うとともに、②行動規範に基づく研修プログラムを作成し、③研究機関における研修プログラムによる行動規範教育の必修化、④競争的資金申請時等における行動規範教育既修の義務化、⑤競争的資金に基づく雇用時の行動規範教育既修の義務化により、上記研修プログラムを普及させ、⑥競争的資金による研究助成に基づく契約時の誓約書提出を求め、⑦さらに、研究機関等に行動規範教育責任者と研究費総括責任者を定め、研究不正をモニタリングする委員会を設置して組織ガバナンスを確立しなければならない。また、⑧上記の遵守を確認するために、研究機関等における行動規範教育を調査し、⑨第三者による検証を可能にするため研究で取得したデータの保存が必要になる。

2. 次に、上記の実施にもかかわらず、研究不正が発生した場合の対応方策として、①当該研究機関において外部有識者を含めた第三者委員会を遅滞なく設置して速やかに処理するとともに、公益通報受付機関を設 置するなどの対応措置を強化する。②また、当該研究機関において十分な対 処が行われない場合には、研究不正に関して設置された第三者機関が、改善措置を勧告する等の対応をとる。③さらに、研究不正事案を公開して再発防止に努めるとともに、研修プログラムの拡充に活かすことが必要である。

本文には、「取締りを強化する」とか、「行動規範教育の必修化」とか、「研究不正に関する公益通報を受ける」といったことばが、乱雑に出てくるように感じました。

以下のようなことも書かれているのですが、どういうことなのか、よく理解できません。国際的な環境下にある学術研究に関して、「研究不正に関する文化の違いがある」という認識はどこからくるのか分かりません。

標準的な研修プログラムを作成する際に、外国における同種プログラムを参考にする一方で、研究不正に関する日本と外国の文化の違いに十分注意し、欧米のプログラムを日本にそのまま機械的に導入することには慎重でなければならない。また、こうした研修プログラムの作成には経費を要することから、国はそのために必要な支援を行うべきである。

断片的な引用だけで判断するのはよくないのでしょうが、全般的に、少々、違和感をおぼえるというのが率直な印象です。

日本学術会議のこれまでの審議や提言等についても触れてるのですが、自ら検討課題としていた「審理裁定機関の設置」についても、明確な判断を示すべきではなかったでしょうか。

それにしても、依然として研究上の不正が頻繁に指摘される状況を考えると、上から目線で制度を提言するだけではなく、その根源的な背景にある学術公正性のあり方にも目を向ける必要があるのではないかと思います。

研究公正局と博士学位取消し

最近、参議院で議員から「研究公正局」の設置に関する質問主意書が提出されたことと、早稲田大学で博士の学位の取消しがあったことを知りました。

このたびの質問主意書は、9月26日付け文科省の「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」の中間とりまとめに関するもので、10月25日に答弁があったとのことです。文科省のとりまとめについては「文科省の『研究不正に向けた取組』について(追記)」で意見を述べました。

学位の取消しについては、10月21日に公表されていますが、「不正の方法により学位の授与を受けた」という理由です。早稲田大学では初めてということですが、東大での学位授与の取消しについて、3年9ヶ月前に「知を窃(ぬす)んで地に落とす」を書いて以来、気になっていたことです。

「自律的な学術公正性の確保に向けて」で書いたように、いま、学術界で考えるべきは、「研究不正」のことだけではなく、より広く「学術不正」への自律的な行動だと思います。研究費の不正使用や研究論文の捏造といった「研究不正」だけではなく、学位授与に関わる問題にも真摯に対応する必要があります。学位を授与することができる機関において、適切な審査が行われなければ、わが国の学位の国際的な信頼性も損なわれます。

わが国の大学における「グローバル人材育成」や「大学の国際化」が話題となる一方で、海外からわが国の大学の根幹に関わる学位の国際的通用性に疑念を抱かれるようなことがあってはなりません。「研究公正性」だけではなく「学術公正性」に目を向けるべきだというのは、こういう思いからです。

また、「公正性」は、まず、学術界において自律的に確保すべきで、「学術警察」は望むものではありません。学術界が真摯に社会に向けて信頼されるような対応をすべきです。自らも行動すべきだと思っています。

研究者の兼業・兼職について

大学等に所属する研究者は、ときに、外部の組織から依頼を受けて、審議会や委員会の委員に就くことがあります。また、大学の非常勤講師といった形で教育に携わる兼職をすることもあるでしょう。日本学術会議の会員は非常勤の国家公務員として発令されますが、あくまでも個人としての立場で任命されるものです。一般に、研究者が外部の組織の委員として委嘱されるときにはそれぞれの専門的な見解を述べることが期待されていて、自らが所属する組織とは独立の立場であるといえるでしょう。

大学等においては、教員等がそのような審議会や委員会、あるいは日本学術会議の会員等に委嘱を受けたときには、その活動が本務にとって有用だと判断される場合には、一定の条件の下で「兼業」、あるいは「兼職」として認めることにしています。あくまでも、本務に影響がない範囲内での活動です。大学教員には、一般に、他大学等の非常勤講師の依頼もありますが、これも同じです。

このように委嘱される研究者の兼業先では、あくまでも個人の見識のもとで意見を表明するのが基本です。所属する組織を代表して意見を述べる立場にはありませんし、むしろ、職務上の立場を反映させた意見を述べることは兼業・兼職として許可できないでしょう。日本学術会議でも、会員として意見を表明することは、あくまでも個人の責任の下で行うべきことであり、決して組織を代表するものではありません。

兼業・兼職として務めるときに、本務や所属組織の意見を反映させようというのはおかしいことです。組織の役職にある者はとくに留意すべきでしょう。当然のことながら、このことは分かっているはずですが、ときにそうでもないことに出会います。また、場合によっては、「人格は一つだから」ということで、本務や兼業において見境のない行動をとるようなこともときに見受けられます。このようなことは、いずれも、学術界における利益相反にもつながりかねません。学術界では気づかないのか、あるいは、あえてそういう指摘を避けようとしているのか分かりません。当事者は自らの意見表明の責任を組織に転嫁することにしているかも知れませんし、結果的に兼務によって所属組織に利便を図ることになるかも知れません。兼務・兼職にあたっては、このようなことがないように厳に戒めるべきだといえます。

Blogでの意見の表明も同じです。所属する本務先や日本学術会議の意見を代表するものではありません。プロフィールには表示していない審議会や委員会の委嘱も受けておりますが、そこでも、個人としての意見の表明をしています。

研究者情報の公表と活用について

大学や研究機関に在籍する研究者は自らの研究成果を論文などで公表していますが、その情報はどのように公開されているでしょうか。論文誌に掲載される論文は、その分野の研究者は論文誌を見て知ることができるでしょうが、それでも、論文誌は数多く存在しますので、網羅的に見ることは難しいでしょう。また、少しでも分野が違う研究者にとっては、研究成果はなかなか分からないものです。一般に、研究者が公的な立場で研究を行っていることを考えれば、研究者自らがその研究成果などを社会に向けて公表すべきではないでしょうか。研究者情報の公表は、学術界における自律的な学術公正性の確保にとっても有用だといえるでしょう。今回は、研究者に関わる情報を自ら公表するとともにそれを活用することを考えてはどうかという提案です。

学校教育法施行規則等の一部を改正する省令(平成22年文部科学省令第15号)が平成22年6月15日に公布され、平成23年4月1日から施行されました。この改正の趣旨は、「大学等が公的な教育機関として、社会に対する説明責任を果たすとともに、その教育の質を向上させる観点から、公表すべき情報を法令上明確にし、教育情報の一層の公表を促進する」こととされています。この省令は、各大学が9項目についての情報を自主的に公表することを求めています。

そのなかで、教員に関わる情報の公表については、以下のように示されていて、各大学は「各教員が有する学位及び業績」を公表することになっています。

【3】 教員組織,教員の数並びに各教員が有する学位及び業績に関すること。(第3号関係)

その際,教員組織に関する情報については、・・・に留意すること。

教員の数については、・・・に留意すること。

各教員の業績については、研究業績等にとどまらず、各教員の多様な業績を積極的に明らかにすることにより,教育上の能力に関する事項や職務上の実績に関する事項など,当該教員の専門性と提供できる教育内容に関することを確認できるという点に留意すること。

読者の方々はこういう状況をご存知でしたでしょうか。すべての大学は教員に関する情報を公表しているのです。

各大学での対応はさまざまです。在籍の教員の学位や経歴、研究業績、学内での活動状況、担当の教育科目等を一覧にして公表していることが多いようです。大学でこのような情報をとりまとめるにあたって、研究業績以外の情報は人事記録等から得られるでしょうが、研究業績については、各教員が情報を提供するしかありません。

大学教員や研究機関の研究者は自らの研究業績はなんらかの形で記録しているでしょう。職を得るにしても、競争的研究資金を得るにしても、経歴等とともに研究業績や教育上の業績などが求められるからです。教員は自分の記録をもとにして、上にあげたように組織の求めに応じて、また、科学研究費等の公募への申請の際には、それぞれの様式に変換して提出することになります。

研究業績にあげる成果物は、一般的には学術論文や会議録等で公表されている著作物でしょうから、その一覧表を様式に従って記載することになりますが、どれが原著の学術論文であり、どれがピアレビューを経て公開されたものであるのか、研究成果として評価すべきものだということは研究者が自らの判断で示さなくてはなりません。そこには、学術公正性の観点から、偽装や誇称があってはならないことは当然です。「こういう成果を『論文』というのはどうか?」といった疑問は直ちに、その研究者個人の「学術界の常識」への疑念につながります。

最近、多くの研究者が Read&ResearchMap に情報を登録していて、教員情報の公表に活用している大学等も増えているようです。もちろん、一般に公開されていますので、研究者名で検索したり、研究課題等での検索もできます。研究者にとってありがたいのは、論文等の情報を個別に入力しなくても、公表されている各種のデータベースから取り出してきて、「候補」としてリストアップする機能があることです。もっとも、海外の出版物についてはまだ十分ではありませんが、整備が進められていますので、近いうちにできるようになるでしょう。また、Read&ResearchMap に登録した個々の教員の情報をもとにして、大学による教員情報の公表用のWEBページを生成したり、教員が申請する科研費の業績リストを生成することにも活用できるということです。

研究者自らが個人の記録の置き場として Read&ResearchMap を利用して、社会に研究成果を公表するとともに、研究者が同じ分野や関係の研究者コミュニティに情報を提供するためにも活用できるでしょう。こうした活用の利便性が高まれば、研究者情報を自ら提供する研究者が増えるでしょうし、学術界での自律的な学術公正性にも効果が得られると思います。

学術界での利益相反について

学術界における「利益相反」は、研究不正の文脈の中では表面に出てこないようですが、研究者の不適切な行為として「学術公正性」の観点から捉えるべき課題だといえるでしょう。以前にも参照した「日本の科学を考える」サイトでの議論の中で感じたことです。職務上の「利益相反」というのは、「職務として中立の立場で業務を行うべき者が自己や第三者の利益を図り、職務の中立性を損なうこと」だといえます。

たとえば、ある分野の研究者の「第一人者」が公的な研究プログラムの立案に携わっていながら、自らそのプログラムから研究費を得るといった状況はどう考えればよいのでしょうか。その分野の「第一人者」と目される研究者は、研究行政の担当部署から研究プログラムの立案に参画を求められることもあるでしょう。その上で、そのプログラムで公募が行われるようなときには、それに応募して研究プロジェクトを提案することもあり得ます。公募されないときでも、プロジェクト実施者についてはなんらかの選定が行われることになり、「第一人者」のプロジェクトが採用されることもあるでしょう。

こういう場面では、プログラムの立案に参画した研究者は「第一人者」なので、そのプログラムのなかで研究することが当然だと見られるかも知れません。なにしろ、「第一人者」なのですから、プログラムを成功させるためにも、プログラムの推進者からはそうして欲しいという意見も出てくることでしょう。

しかし、これは健全な研究プログラムの姿ではありません。どうしてこういうことが起こるのでしょうか。端的に言えば、研究者が当面の研究費を得ることを目的としているからでしょう。高い見識を持って広く学術界のことを考え、説明責任を果たすことを念頭に置くならば、研究者自らが利益誘導を行うことはないはずです。そうでないからこのようなことが起こるのです。「立場が違うから」という言い訳もされるでしょう。たしかに、中立的に振る舞うことはできますが、それでも、「自己の利益を図り、職務の中立性を損なう」ことです。

こうした形の利益相反は学術界ではときに話題になりますが、「形式的には問題がない」、「研究不正ではない」ということで、上にあげたような「第一人者」はそれであり続けるということになっているようです。しかし、学術界における利益相反行為は、当然、「学術公正性」の観点からも自律的に排除すべきことです。

「審議のアーキテクチャ」について

計算機科学の分野では「アーキテクチャ」というと、直ちに Computer Architecture を思い浮かべます。もちろん、「アーキテクチャ」はそれ以前から建築学で使われている用語です。しかし、このことばはさらにより広い分野、たとえば社会思想の分野でも使われていることを知りました。日本学術会議の審議について、会員のある方との立ち話でこのことばを教わりました。その概念を正確に表すことができないのですが、「組織の構成員が自発的に議論に参画できるようにすることにより、一部の構成員からなる委員会審議よりも本質的な審議をすることができるのではないか」いうことで、審議の構造に関することをこの「アーキテクチャ」ということばで表現してみたのです。もとより、ここでは「アーキテクチャ」の用語を議論しようというのではありません。以下は、新たな「審議のアーキテクチャ」の提案です。

日本学術会議の第165回総会が10月2日〜3日に開かれました。会員210名が参加する半年に1回行われる総会です。自由討議のときに、学術会議の会員・連携会員の約2,200名が利用できるWEB掲示板についての話題を提供しました。この掲示板は1年ほど前から使われています。WEB掲示板には委員会等の委員に閉じたフォーラムと会員等に全面的に公開されているフォーラムがあります。それぞれのフォーラムには、話題ごとに意見交換をするトピックを設定することができるようになっています。記事の掲載はすべて実名で行います。総会で提供した話題というのは次のようなものです。

 日本学術会議は行政機関ではありません。また、特定業務を目的とした独法でもありません。科学者コミュニティを代表する会員が政府から独立して議論できる場です。

会務を円滑に行うために委員会や分科会を置き、幹事会が総会を代理して学術会議の意思を決定する仕組みですが、会員が同等の立場であることから、委員会等での決定は最大限尊重することが慣行となっているといえます。そこには、陳情や利益誘導は忌避すべき活動だといえるでしょう。

こうした学術会議の構成員のあり方を基礎に、会員・連携会員が同等の立場で、委員会等への所属や役職とは無関係に自由に意見を交換して議論することができるように掲示板 SCJ Member Forum を設置しました。また、最近の会員が多忙で会議のために参集することが難しいことも一つの要因だったといえるでしょう。

運用を始めて、1年以上経つのですが、その利用は、必ずしも本来の目的にあったものとはなっていないように思われます。

会員の方々と、掲示板の利用に関してその実績とその活用についての意見交換をしたいと思います。

日本学術会議の会員210名は、人文・社会科学、生命科学、理学・工学という3つの部に分かれて所属しますが、学術の専門分野ごとの振興を図る活動とともに、分野を越えて学術の総体に関わる活動を行うことが職務だといえます。分野別に30の委員会がありますが、それらの下に総計300を越える分科会が設置されています。これらの委員会や分科会は、それぞれの専門分野の委員で構成されているのですが、学術全体に関わる委員会には、各部から委員を選んでいます。会員以外に、2,000名弱の連携会員も参加します。

このような形で行われている委員会の「審議のアーキテクチャ」は、従来の伝統的な会務運営に基づくものですが、果たして、一定数(30名以下)の委員から構成する委員だけで会員の意見を十分に代表できているのでしょうか。決して、委員の方々を批判しているわけではありません。委員を務める方々の代表性の課題の解消とその方の周囲の方々の意見を集約するという負担の軽減という観点からの提案です。学術会議は、会員が同等に意見を述べることのできる組織であり、行政機関のように役職によって構造化されているわけではなく、会務を処理する会長、副会長、部の役員に辞令が出ているわけでもありません。

実際、すでに公表された審議結果の表出に関しても、会員等からのさらなる意見も出されます。委員だけで広く会員の意見を代表するのが難しい場合もあるでしょう。こういうことに対して、新たな審議の形態、すなわち「アーキテクチャ」があるのではないでしょうか。たとえば、このところ話題になっている「学術の公正性」といった議論を行うには、選ばれた少数の「委員」だけではなく、会員等が同じ立場でWEB掲示板で意見を交わす形で審議を行うのがよいのではないかと思います。

このような審議の形態は、構成員が同等に意見を述べあうことを基本とする組織に特徴的なものだといえるでしょう。政府等の委員会で「有識者」として研究者が委員を務める場合とは状況が違います。従来の「委員会」を構成するには多数に過ぎる会員組織における審議を実質的に行うために、WEB掲示板という手段による新たな「審議のアーキテクチャ」を考えてはどうでしょうか。もちろん、掲示板だけでなく、Facebook等の可能性もあるでしょう。

上にあげた学術会議総会での話題提供は、本来ならば、WEB掲示板で行いたいと思ったのですが、なにしろ、そういう議論を掲示板で交わす状況にないので、会員の方々の(半数ほどが出席している場で)意見を聞いたのです。その反応や結果についてはご想像に委ねますが、「審議のアーキテクチャ」という観点を得たことは収穫だと思っています。

自律的な学術公正性の確保に向けて

以前に記事「Academic Integrity と Research Integrity」を書きました。”Academic Integrity” は「学術における誠実さ」ということですが、これを「学術公正性」と呼ぶのはどうでしょうか。”Research Integrity” を「研究公正性」と呼ぶことに対応するものです。繰り返すことになるかも知れませんが、学術公正性について考えてみました。学術界で学術公正性を保証するためには、どのような仕組みが考えられるでしょうか。

研究不正に関わる一つの大きな問題として、研究費の不正使用がとりあげられます。研究上で必要とされる経費の執行には、研究者だけでなく、所属機関の経理担当者も関与していますので、一定のチェック機能が働いているといえるでしょう。それでもなお、責任者である研究者が主導して不正を行うということは、研究とは異なる別の能力の欠如だといえます。そこには、研究機関や大学における研究者の奢りがあるといえるのではないでしょうか。

一方で、論文の捏造といった研究成果の公表に関する不正のチェックには専門性が必要です。論文の内容については、同業者としての研究者が判断することになり、研究者でムラを作っているとその外部からは見えなくなってしまいます。狭い世界で階層的な構造ができて、指導的立場にある研究者の指示によって研究の担当者に不正を不正と感じさせなくしていることもあるでしょうし、そのような言動を見て、代々それを継ぐということもあるのでしょう。こうした構造的な問題は、研究者の世界で解決すべきことです。

研究不正は、研究者が本来の研究以外のことに深い関心をもち、自らの邪な思いをとげようと手を染めてしまった結果だといえるでしょう。しかし、このようなことは、研究に関することだけではないと思われます。以前にも触れましたが、研究者があるポジションに就こうとするときには、自ら業績を提示して評価を受けることが一般的です。最近の記事で「学術公正性(Academic Integrity)」について数回、意見を述べました(「科学者倫理に思うこと」「『生涯論文数』について」)。最近は学歴詐称や学位偽装といった不正は少なくなったようですが、それでもときに指摘があるようです。

業績誇称も学術的な公正性に反することであることは確かでしょう。申告された論文の同一性を判定したり、論文数から業績が水増しされていると判断したりすることは、その分野の研究者でなければできません。外見的なことだけでは分からないので、目が行き届かないというのは、論文の捏造の場合に似ているといえるでしょう。最近の記事や他のサイトでのやりとりが「世界変動展望」サイトの「論文水増しによる業績評価について」で紹介されています。

このようなことから、学術界の誠実さを高めるためには、「研究公正性」にとどまらず、「学術公正性」という見方が望まれるのではないでしょうか。「研究公正局」の設置が検討されるようですが、「不正の取締り・監視」以前に、学術界において「学術公正性」を判断するためのガイドラインを共有して、自律的に公正さを保証する仕組みを検討することから始める必要があるでしょう。

こうした学術公正性を確立するための仕組みの一案です。研究不正にしても業績誇称にしても、対象とされる研究者や機関に対して、研究者の所属する機関における研究実施状況の調査や研究内容に関する専門的な観点からの調査が必要なことから、第一義的には研究機関における調査委員会が担当することになるでしょう。この調査結果を報告書として根拠資料とともに学術界に提示して、第三者による裁定を求めるというのはどうでしょうか。自己点検評価に基づく改善の仕組みのなかに第三者評価を置くという考え方は、大学における内部質保証の基本的な考え方で、学術界における自律的な活動にふさわしいものだといえます。