Category Archives: 学術一般

研究費に思うこと

「研究不正」にはさまざまな要因がからみあっていますが、研究費との関係もその一つでしょう。研究費の「不正使用」ということが、今でも報道されます。科学者が社会からの信頼をなくする大きな問題だといえるでしょう。論文の捏造や論文数の水増しなどは研究成果に関する不正ですが、研究実施に係る経費はどうなっているのでしょうか。

大学で研究に携わったことを振り返ってみると、研究成果は公表した論文等を通じて、社会の共有知財として活かされることに喜びを感じるものです。その一方で、その研究を実施するにあたっての公的資金の実態を伝えることには、それほど関心をもっていなかったと反省しています。一般的には、研究費はあまり公表しないようです。研究費の原資は分野によってさまざまでしょうが、curiosity-drivenの基礎的な研究では、代表的には科学研究費でしょう。科研費については、「科研費データベース」を通じて、だれでも、特定の研究者の研究経費と成果を知ることができます。私が研究代表者として実施した科研費による研究は17件であることが分かります。

2年半ほど前、2011年3月に大学を退職するときに、研究代表者として研究室での研究に充てた経費の状況を振り返ってみました。「研究室」の大きさは、いわゆる旧小講座程度で、少しの変動はありましたが、おおむね、教授、准教授、助教が各1名で、大学院学生と一緒に研究をするというものでした。そのときに使ったのはスライドのページ「研究費」でした。研究室の教員が共同研究者として実施した経費分を示したものです。もちろん、若手の教員も科研費を獲得していましたので、これだけで研究室の研究費をまかなったというわけではありません。また、大学院の学生には、研究課題を自ら見つけることを勧めていましたので、科研費の課題と異なることもありました。そのときには、別途、研究費を充てることもありました。

科研費に限らず、公的資金への応募に際しては、すべての書類を自分で作りました。それなりの苦労はありましたが、それでも、研究マネージメントに時間がとられる、といった感じはしませんでした。つつましい研究だったといえるでしょうか。

上に示した研究費の状況の中には、文科省の研究プロジェクトe-Societyの経費にも触れていますが、このプロジェクトについては別の機会に書きたいと思います。2006年には、エフォートを考慮して、科研費を申請しなかったと記憶しています。それ以外には、研究費としては、企業等からいただいた寄付金もいくらかありました。大学の公費(運営費交付金)や科研費で海外出張が認められなかった時期には、非常にありがたい資金でした。特定の研究課題の支援経費ではありませんでした。また、当然のこととして、寄付金には利益相反への配慮が必要ですので、管理的職務についてからはその可能性を排除するために、一切の寄付金を受けませんでした。

研究に係る倫理のあり方を考えるにつけ、他者の批判をするだけではなく、自らの行動を振り返ってみることも大事ではないかと思います。公的にその場にある人たちは、積極的に成果と研究費の関係も公表すべきでしょう。

「生涯論文数」について

最近、研究者のさまざまな「不正行為の防止」が科学研究の大きな課題になっています。かなり前に、「科学者の行動規範とAcademic Honesty」という記事を書きましたが、依然としてこのような話題が尽きません。

研究の成果を正確に公表すべき論文を「捏造」するという研究者にとっては信じられないことが起こっています。これとは別ですが、研究費の私的流用という犯罪も話題になっています。論文の捏造には複雑な背景があるといわれることもありますが、研究者の学術界に対する、いや、社会に対するきわめて重大な欺瞞行為に違いはありません。それ以外にも、研究者が論文数を過大に誇示することも問題でしょう。

研究成果を学術界に公開し、学術的な評価を受けたあらたな学術的知見を社会に置くということは、研究者の責務だといえますが、一方で、このように、自らの研究活動の成果が学術的に評価されることは、大きな達成感につながるものといえるでしょう。そのような研究活動の成果を不適切に操作して「よい評価を受けようとする」論文を捏造するという行動は、当然のことながら、研究者にあるまじきことです。論文数を水増ししようとして、同一の成果を複数の論文に仕立てるとか、研究に直接的に関与していないにもかかわらず共著者として名を連ねるといったギフトオーサーシップというのも、研究者としての評価を高めようとする自己中心的な欺瞞でしょう。

そもそも、研究者の不正行為として論文の内容が問われるのは、ピアレビューを通して成果の新規性や有用性が評価された上でのことです。研究内容に通暁していなければ不正が分からないので、社会からは閉じてしまっているのが実情でしょう。

学術論文に関わるこのような「不正行為」とは違った側面ではありますが、気になることがあります。研究者がこれまでに公開した「生涯論文数」というのは、研究分野が違っても成果の評価の度合いが分かりますし、一般社会でも注目しやすいでしょう。個人の経歴や業績に関する情報として、学位や研究活動歴とともに「生涯論文数」が示されると、個人の研究活動の概要が分かります。分野によって成果発表の論文数の相場(?)が違うのは当然のことですが、どの分野においても、「学術論文」は研究者によるピアレビューを経て、その分野で一定の評価を受けて学術論文誌等で公表されたものを指すことは変わらないでしょう。

私は、現在のところ約110編の学術論文を公表しています。決して多くはありません。学術論文として公表した研究成果はすべて、個人のWebサイト (http://takeichimasato.net) で公開しています。

最近は、学術論文に関する情報は、トムソン・ロイター社のWeb of Science の他にも、インターネットを通じていろいろな方法で検索できるので、関連研究の調査も効率的に行うことができるようになってきました。Computer Science (計算機科学) の分野では、WoS からは十分な情報が得られないこともありますが、Google Scholar はかなりの情報が得られると思います。自ら著者名で検索すると、手元で記録している論文がほとんどすべてリストアップされていました。わが国で出版公表された(論文以外も含む)文書等は CiNii から得られます。ちなみに、私の論文等は Google Scholar では 約160件がリストアップされます。その中には、大学の専攻で公表していた Technical Report も入っていますので、これをもとにして学術論文を160編だというと、研究成果の水増しになってしまいます。

最近の話題である元東大教授のK氏については、東大が1990年〜2011年に同氏が関わった165編の論文を調べて、そのうちの43編に対して「撤回が妥当」だと判断したと報じられています。これら以外にもあるのかも知れませんが、20年間の論文数として多いのか、少ないのか、この分野の相場は分かりません。しかし、年間8件程度だというのは参考になります。

数年前から話題になっている元東北大学I氏の発表した論文数は2,000編を越えるといわれています。実態が分かりませんが、学術論文1,000件、2,000件が「生涯論文数」ということだとすると、どのようにして論文を書き、レビューアーとの対応をしたのか、想像もできません。しかし、実際にこうした件数の「生涯論文数」を公表しているものを目にします。

「生涯論文数」は、研究者がこれまでに公表した学術論文数のことですから、当然、本人は知っているはずです。研究者が、自らの経歴に添えて社会に発信するときには、正確に伝えなくてはなりません。今や、Google Scholar などでおおよその目安はつくものです。研究者としての評価を高めようとして、一般社会に向けて論文数を誇大に表示するようなことがあるとすると、それは研究者の資質に関わることといえるでしょう。

日本学術会議 副会長辞任にあたって

2013年4月2日に日本学術会議の副会長を辞任いたしました。辞任にあたって、総会で辞意の表明、および退任の挨拶をいたしました。副会長を1年半、務めました。その間、ご協力いただいた関係者の方々に感謝いたします。

以下に、辞任の申出と退任にあたっての挨拶を引用いたします。

副会長退任にあたって

2013/04/02

副会長辞任の申出

 第22期の折返しの時期にあたって、1年半、務めてきた副会長を辞任させていただきたく、ここにお願い申し上げます。組織運営・科学者間の連携を担当して参りました。会員・連携会員の方々には多大なご協力をいただきました。私自身が、副会長としてなすべきだと考えている任務を果たすことができなくなったことを感じております。

会員のみなさま、関係者にご迷惑をおかけいたしますが、なにとぞご理解いただきたいと存じます。

副会長退任にあたって(挨拶)

 副会長退任にあたってひとことご挨拶させていただきます。

第19期の2年間、新生学術会議になって第20期からこれまで7年半、都合9年半、学術会議の会員を務めてきました。副会長の任に就く前にも、事務局の方々のご協力をいただきながら、また、事務局のお手伝いもしながら、会員としてやりがいのあることをしてきたことを思い出します。今後も、会員として力を尽くしたいと考えております。

ここで、先日、配信していただきました「幹事会だより」に添えた最後のメッセージを、再度、お伝えさせていただきます。

—-

会員・連携会員の方々から、学術会議が社会に十分に知られていないということを聞くことがあります。また、学術会議に関係のある方々からもたびたび指摘されることです。われわれは、学術会議が社会に知られるように努めるべきことはもちろんですが、一方で、地道な活動を継続することも大事だといえます。学術会議で、分野を越えて、また本務の所属組織を越えて学術の課題を議論する機会は貴重なものだと感じています。第22期もちょうど折返しの時です。学術会議の総体はもちろんですが、部や委員会・分科会でも、継続的な活動のために、第23期に備えるよう配慮すべきでしょう。学術のあり方の継続的な議論のなかから社会にも注目される成果が得られることを期待します。

—-

以上が退任にあたってのメッセージです。

新副会長を得た執行部および幹事会がわれわれ会員・連携会員を代表して今後の学術会議の運営にあたっていただくよう期待いたします。

日本学術会議中部地区会議学術講演会

2011年11月11日の日本学術会議中部地区会議学術講演会会    http://www.shizuoka.ac.jp/public/event/detail.html?CN=891&PG01=us05

に参加しました。2つの講演、ほんとうに楽しみました。活発な地区会議の運営についてもお話しを聞いて、あらためて科学者コミュニティの地域的な広がりを認識しました。講演会で以下のようなご挨拶をさせていただきました。

—-

中部地区会議挨拶

日本学術会議 副会長 武市正人

2011/11/11

日本学術会議副会長の武市正人でございます。

日本学術会議はわが国の84万人の科学者を代表する機関として、学術の振興に努めています。中部地区会議主催の学術講演会にあたり、ご挨拶かたがた最近の学術と社会の関係について考えていることを申し上げるとともに、日本学術会議のご報告をさせていただきたいと存じます。

最近、考えることは、やはり、3月11日以降の科学や技術のあり方です。日本学術会議は60年少し前の1949年1月に設立されました。大きな意志決定があったのは、初期に、原子力論争から生み出された研究開発の「民主・自主・公開」の三原則だったと歴史が教えてくれます。研究活動全般に通用する原則といえるでしょう。学術会議は、制度的には変革を経ましたが、先輩の方々のさまざまな活動を礎として、わが国の学術のあり方を定着させてきたといえます。新生学術会議においても大きな意志決定が必要とされていると感じています。もちろん、Science for Societyとして社会への発信も大事ですが、発信すべき「声」のあり方も考える必要があるでしょう。その「声」は学術全般に対する見方から出るものだと感じています。学術を謙虚に見たいと思います。その上で、科学者集団として、外部の勢力から独立して学説間の均衡を保つunique voiceをもつことが大事だと考えています。

今年の10月に今後3年間の第22期が発足して一月余り経ちました。大西隆会長の下、東日本大震災復興支援委員会を設置し、その下に3つの分科会「災害に強いまちづくり分科会」、「産業振興・就業支援分科会」、「放射能汚染対策分科会」を立ち上げて活動を始めようとしています。このような活動を通じて科学者の新たな「声」として社会に発信できるように努めたいと思います。

ここで、科学者コミュニティ担当の副会長として、いくつかの視点から、科学者コミュニティについて、お話しさせていただきたいと思います。

日本学術会議の第21期(2008年10月からの3年間)には、総力でとりまとめた「日本の展望」で科学の立場から今後を展望し、同時に、「科学・技術」を定義しました。いろいろと話題になったこともありますが、「科学技術」がScience-based Technologyに解されるので、それをScience and Technologyにすべきだという含みでした。しかし、これは現在のところ、法的に認められるに至っておりません。これからは、むしろ、これを「学術」として捉えるのがよいと考えています。もちろんのこと、「学術」は人文・社会科学分野を含めた「科学・技術」です。日本学術会議は、狭義の科学だけでなく、このような意味の「学術」を包含するアカデミーです。こうしたアカデミーは国際的には少ないのですが、最近はそのようなアカデミーの必要性も指摘されてきています。われわれはその先頭に立って、「学術」による国際社会への貢献を目指して行くべきだと思います。日本学術会議では、こうした、科学者の分野の広がりを認識して、学術の発展に尽くすべきだといえるでしょう。

もう一つは、若手科学者、すなわち学術に関わりをもってから浅い年数の科学者の活動に関わることです。第21期には、「若手アカデミー」の構想を検討しました。第22期には、学術会議の中に若手アカデミー委員会を設置して、若手科学者が自立的に活動する枠組みを作り、第23期には「若手アカデミー」を設置することとしています。先週、11月4日には若手アカデミー委員会を開いて、活動を開始しました。なお、若手科学者とは、大雑把にいって、45歳未満、あるいは学位取得後10年未満といった層です。日本学術会議では、こうした若手科学者の意見を反映させて、アカデミー活動を活性化すべきだと考えています。これが、年齢層の広がりという科学者コミュニティのあり方への対応です。第22期の会員のうちで最若年の方は50歳です。これに対して、連携会員のうちで、若手アカデミーに属すると考えられる方々は10名余りいらっしゃいます。第23期には、60名程度の連携会員からなる若手アカデミーの組織を構成できるように考えています。

科学者コミュニティの広がりの第三の視点は地域性だといえます。わが国では、科学者によらず、さまざまな活動が東京あるいは関東に集中する傾向にありますが、日本学術会議ではこれまでにも地域的に広がりをもつ科学者の連携を推進してきました。中部地区8県に在籍の第22期の会員は16名で、前期よりも1名増、連携会員は148名で前期より6名増となっています。中部地区の活動状況をお聞きして、いっそうの連携を推進すべきであると考えています。

最後になりますが、社会においても課題となっている男女共同参画の視点から日本学術会議の現状を見たいと思います。科学者コミュニティでは、女性科学者が少ないということもあって、男女共同参画は継続してポジティブアクションの対象となっています。日本学術会議においては、会員210名のうちで女性会員は23.3%(49名)です。女性の連携会員は1904名のうちの16.5%(315名)となっています。いずれも、3年前よりも数%の増加で、着実に男女共同参画によるアカデミー活動を進めてきています。

以上、わが国の科学者を代表する日本学術会議における科学者コミュニティへの対応をご報告させていただきました。このような科学者コミュニティの世代や地域の広がりを認識することは、科学者だけではなく、産業界を含めた社会一般の活動にも通じることだといえましょう。科学者コミュニティの広がりが社会にもりかいいただけるように努めたいと考えています。

本日の学術講演会を企画された中部地区会議および科学者懇談会の方々のご尽力に感謝いたしますとともに、ご講演をお聞きする貴重な機会をみなさまと楽しませていただきたいと存じます。

日本学術会議副会長として

 日本学術会議では第22期(2011年10月〜2014年9月)の会長として10月3日の総会で大西隆氏を選出しました。また、10月4日には大西会長から私と小林良彰、春日文子両氏が副会長に指名され、総会で承認されました。以下に副会長就任の挨拶文を掲載いたします。社会における学術の役割に目を向けて、会員の方々をはじめとしてわが国84万人の科学者の連携のもとで努力したいと考えています。

****

 このたび、組織運営及び科学者間の連携担当の副会長に就任いたしました。

 現在、社会は科学や技術のあり方に大きな期待をもちつつも、その役割に満足しているとはいえません。日本学術会議は60年余の歴史の中で、制度的な変革を経ましたが、さまざまな活動を礎としてわが国の学術のあり方を定着させ、科学者の大きな意志決定を主導してきました。今日、さらに科学者の大きな意志が必要とされていると感じます。科学者からの社会への発信はもちろんのこと、そこで発信すべき「声」のあり方が大事だといえます。学術全般に関わる科学者のさまざまな見方から出る声を、外部の勢力から独立して意見の相違をも含んだ合意した声として発するよう努めるべきでしょう。このような、科学者の連携による声を社会に発信することが、日本学術会議が代表する科学者の大きな意志の一つだと考えています。

第21期に公表した「日本の展望」では、「科学・技術」を定義しました。これは「学術」といえばよいでしょう。もちろんのこと、学術は、人文・社会科学分野を含めた科学・技術です。狭義の科学だけでなく、学術を担うアカデミーが国際的にも注目されてきていますが、われわれはその先頭に立って、学術による国際社会への貢献を目指して行くべきだと考えます。さらに、こうした学術分野の広がりとともに、科学者の世代の広がりもあります。若い科学者が次世代の学術の担い手として活動できるよう、第21期に構想した「若手アカデミー」の実現に向けて取り組むことも科学者間の連携にとって大事だと考えています。

日本学術会議が果たすべき責任を認識し、会員・連携会員のみなさまのご協力を得て、学術の発展のために力を尽くしたいと思います。

「学術」とは?

以前に「Scienceは「理科」?「科学」?」という話題で私見を述べたことがあります。また、日本学術会議も話題にしたことがあります。

“Science” の日本語訳のことを言っておきながら、「学術」を英語でどう表現するのか、私には分かっていないことに気づきました。日本学術会議の英語名は “Science Council of Japan” です。

「学術」ということばは、[広辞苑 第四版]には

①学問と芸術。
②学問にその応用方面を含めていう語。「―雑誌」

とあります。また、[岩波国語辞典第六版]には、

学問。「―雑誌」「―論文」#学問と芸術、または学問と技術とをふくめて言うこともある。

と書かれていて、「学問と芸術」あるいは「学問と技術」と明示してあります。「学問と○術」を簡潔に「学術」にした感じがするのですが、どうでしょうか。要は、「学」の「術(すべ)」ということでしょう。とはいっても、「すべ」というのはまた、含みのあることばだと思います。

さて、「学術」に対応する英語はどうかというと、[研究社 新英和・和英中辞典]

science; 〈学識〉 learning; scholarship 《★英語に「学術」にぴったり当てはまることばはない》

のように、ピッタリとしたことばがないと書いてあります。

たしかに、日本学術会議はわが国を代表するアカデミーとして国際的な学術団体として位置づけられていますが、多くのアカデミーではカバーしていない「人文・社会科学」分野を含んでいるという特徴があります。現在の日本学術会議は3部から構成されていて、第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)がそれぞれ1/3を担っています。詳しくは学術会議のホームページ

http://www.scj.go.jp/

を参照していただきたいと思います。人文・社会科学を含めている “Science Academy” は、国際的にも特徴的ですが、国際規模の課題の解決に学問が対峙するためにも、最近はむしろ日本学術会議のようなアカデミーの形が評価されていると思います。

つまり、「学術」というのは、狭義の(自然科学)を指す “Science” ではなく、人文・社会の分野、および工学分野をも含む「学問と○術」を包括的に表していることばだと理解してよいのではないでしょうか。これが、日本学術会議の英語名にあるように、”Science” のあらたな概念になるのではないかと期待しています。

Scienceは「理科」?「科学」?

Scienceは「理科」でしょうか?

わが国では、小学校から高等学校までは、「物理」、「化学」、「生物」、「地学」という『科目』をまとめた「理科」という『教科』があります。大学の入学試験でも、このように『教科』と『科目』が指定されています。

英語でScienceと呼ばれる学術領域は日本語ではどのように呼ぶのでしょうか。どうやら、教育の場では「理科」と呼ぶことが多いようです。また、学術の世界でも、これら、自然科学の分野では、Scienceを「理科」と呼んでも違和感がないように受け取っておられると感じます。また、少々、理解できないのですが、「数学」は「理科」の仲間だと言うことです。数学は自然科学ではないでしょうに・・・。これは、おそらく、わが国に固有の「理科系・文科系」という分類で「理科系」に含まれるからでしょう。

私の研究分野の「計算機科学 (Computer Science)」が自然科学に含まれておらず、したがって、「理科」ではないということで拗ねているというわけではありません。「計算機科学」がわが国で定着しなかったことについては、昨日の「「情報学」と書いたものの」で触れました。

Science は「科学」ではないでしょうか?

詳細は別の機会にするとして、計算機科学は、それらの各分野において、

・数学的な方法論に基づく理論:対象の定義、定理の証明など

・理学的探究の方法による抽象化:仮説の設定、予測、データの収集など

・工学的方法論に基づく設計:要求と仕様の定義、システムの実現、システムの検査

という3要素から構成され、しかも、これらを循環的に(すなわち、数学-理学-工学-数学-・・・というふうに)適用するという特徴がある、というのが固有のディシプリンだということです。これが私の理解です。

これは、「科学」ではないでしょうか。まさに Science ではないでしょうか。科学者が、伝統的な「理科」を科学だと誤解しないようにしていただきたいと思います。計算機科学が「振興分野」だという時期はもう過ぎました。自然科学だという物理学にしても、生で実験するのではなく、自然のモデルを設定し、計算によるシミュレーションで研究する方法が増えてきていると聞きます。科学する方法論は変わっていくでしょうが、「科学」にも新たな分野があることを認識すべきでしょう。

Science は「理科」ではなく「科学」というのがよいのではないでしょうか。

「情報学」と書いたものの

昨日は、わが国の「情報学」の研究者数について書きました。

ずいぶん前に、「情報学とは」という議論が交わされました。きちんと記録をとっているわけではありません。また、そのような議論にどの程度参加したのかさえ怪しいものですが、少なくともほぼ10年前の科研費の企画調査研究の分担者として参加して議論に参加したことは覚えています。また、手元には、池田克夫氏が代表者を務められた平成12年度科研費「情報学の学問体系に関する共同研究についての企画調査」報告書があって、その中で「情報学教育推進の施策と方向:理工系情報学の担当教員について」報告をしています。昨日の記事の発端になったものです。

そういえば、2004年の「学術の動向」3月号に「情報学分野の今日と明日」という記事を書いて、学術界に報告したことも思い出しました。「学術の動向」とは、「日本や世界のあらゆる分野の科学の動向、日本学術会議の状況、 内外で開催される学術講演、シンポジウムの情報を満載。 編集, 学術の動向編集委員会. 編集協力, 日本学術会議. 発行, 財団法人 日本学術協力財団.定価, 756円(税・送料込)」という広報誌です。

http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/

折に触れて、このようなことを話したり、書いたりしたことがありますが、今なお、「情報学」が学問としてのディシプリンを確立できたのかどうか、よく分かりません。極言すれば、10年前と変わっていないのではないか、と感じるのです。先日のシンポジウムで話題になったことの多くがそう感じたというのは、ひょっとしたら、私の理解が十分でないのかも知れません。10年前、研究代表者の池田氏からお誘いを受けて研究班に加わったとき、皆さん、先輩の先生方でした。科研費で企画調査研究を行うという計画はそれ以前から始まっていましたので、おそらく、10年以上前から議論していたことでしょう。

日本ソフトウェア科学会の学会誌「コンピュータソフトウェア」に、「『計算機科学』は死語?」という巻頭言を書いたのは1997年9月号(No.5) pp.437-438 でした。

http://nels.nii.ac.jp/els/110003743995.pdf?id=ART0004921720&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1268190094&cp=

時、折しも、現在の国立情報学研究所の設置につながる「計算機科学研究の推進について」という表題の日本学術会議の勧告を政府に提出したところでした。当時、この勧告案をとりまとめておられた学術会議会員土居範久氏のお手伝いをさせていただいたので、その経緯も、その後の成り行きも一通り分かっています。それは別としても、今なお、この巻頭言に書いたこととおなじ気持ちになるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、すべてがそうだというわけではありません。その後、私もいろいろと学びましたし、視野も広がったことは自認しています。しかし、依然として、「情報学」というディシプリンがよく分からないのです。

「情報学」分野が学術全体の5%だというのは、決して大きさを誇示しようとしたわけではありません。また、その名のもとにさらに拡大して「勢力」を大きくしようというつもりでもありません。むしろ、明確なディシプリンがないという「情報学」というところに新たな多様な分野(かどうか?)の芽が集まってきているのではないかとの思いで書いたものです。

大胆に言えば、「情報学」には、古典的なディシプリンというものを求めるものではないのかも知れません。私自身は、「情報」に関わる領域の中に「計算」に関わる学術分野があって、そこには他の分野にないディシプリンがあると考えています。もちろん、これが「情報学」のすべてではありません。

「情報学」の研究者数

2010月3月6日には、日本学術会議主催の「情報学シンポジウム」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/86-s-3-4.pdf

があったことに触れました。

そのときにも感じたのですが、「情報学」とはどの範囲の学問でしょうか。かなり幅広いことは多くの方々が認識しているでしょう。

以前から、「情報学とは」といった議論がありますが、ここでは、それを繰り返すつもりはありません。現在、文科省の科学研究費では、「総合・新領域系」の「総合領域分野」の「情報学分科」として『情報学』が現れます。『情報学』には、「情報学基礎、ソフトウエア、計算機システム・ネットワーク、メディア情報学・データベース、知能情報学、知覚情報処理・知能ロボティクス、感性情報学・ソフトコンピューティング、図書館情報学・人文社会情報学、認知科学、統計科学、生体生命情報学」といった11の細目があります。とりあえず、これら11の分野を現代の『情報学』とするのが一つの考え方でしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_20.pdf

このような情報学分野の研究者は学術の全分野に対してどの程度なのでしょうか。もっとも、ここでは大学に限ってのことで、企業の研究者の方々についての情報は私には分かりません。科研費の配分データも公表されていますので、これが参考になるでしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_07.pdf

ところが、ここでは、分科・細目ではなく、「分野名」という別の基準によって集計されているのです。その理由は分かりません。「情報・電気電子工学系」というのがあります。ピッタリではないにしても、近いと考えられるでしょう。この分野の採択件数は、かなりの年にわたって6%強です。このあたりが学術全体に占める「情報学」の割合とみてよいでしょうか。

日本学術会議には専門分野として30分野があります。その一つの「情報学」に所属する会員は、全会員210名に対して12名です。また、連携会員約2,000名に対して111名です。これらは、「情報学」が5〜6%であるということを表しているといってよいでしょう。私の所属する総合大学でも、教員数の比率はほぼこの程度だと思われます。

「情報学」の範囲が広いからといって、学術分野の10%が情報学ということはなさそうです。大雑把に言って、5〜6%だと考えてよいでしょう。

それでは、これらの分野の大学教員はどの程度でしょうか。これも、非常に大雑把ですが、私は約2,000〜3,000人だと思っています。少し、古いのですが、5年ほど前に、国公私立大学の約200の理工系情報学科・専攻(学科と専攻の重複あり)に所属する教員(当時は、助手・講師・助教授・教授)2,600名の専門分野を調べたことがあります。学科や専攻に所属するものの、情報学分野とはいえない分野の方々が800名ほどということで、情報学分野には1,800名ということかも知れません。

では、博士の学位取得者は年間、どの程度でしょうか。これも、古いデータですが、2000年の論文タイトル4,000件ほどから、情報学分野だと思われるものを分類しましたが、それによると、年間300〜400名が情報学分野で学位を取得していました。今でも、それほど変わっていないのではないかと思います。2,000〜3,000名の教員が40年ほどで退職して、若手が補充されるということとすると、年間50〜75名分のポストが空くということになります。学位取得者が大学にポストを求める場合にはこのような現実があるわけです。最近では、博士の学位取得後に産業界で活躍する人が増えています。

情報学分野の大雑把な量的把握ができましたが、他の伝統的な分野のこのようなデータを知りたいと思います。とくに、博士課程の学生のことが話題になるときに、入学者が減っているという現実を改善しようという議論はにぎやかですが、学位の取得者が得ることのできる大学のポストについての話はあまり聞きません。このあたりのデータがあれば議論が分かりやすくなると思います。

学術全体の5〜6%が「情報学」、新たな分野としては大きいものといえるでしょう。学術だけでなく、社会に対する貢献も期待されています。

「ハード」と「ソフト」

一時期、計算機(コンピュータ)のハードウェアとソフトウェアを(日本語独特の)省略形で、「ハード」と「ソフト」と呼んでいたことがあります。なんだか、背中がむず痒くなってきます。もとの英語では形容詞、カタカナ書き「日本語」ではこれを名詞として使っています。

ところが、最近では、一般社会でも「ハード」と「ソフト」が使われることが多いように思います。

「ハードウェア(hardware)」ということば自体が、本来は「(木製のものではない)金物」を指していたものが、計算機のハードウェアなどの物理的な装置や機械を表すように変化した、あるいは、転用されたのだし、それに対比して「ソフトウェア(software)」ということばが生まれたのですから、生き物であることばに慣れていないからといって文句をいうのはおかしいかも知れません。

しかし、「ハード」、「ソフト」を名詞として使うのはどうでしょうか。とくに、最近は、一般社会における施設や設備を「ハード」と呼び、規則や制度を「ソフト」ということが多いようです。こうした場面では、ハードウェアやソフトウェアといったことばでは呼ばないのかも知れません。そう表現しようという意図は分からないわけではありません。また、そのように書かれているところを、「ハードウェア」、「ソフトウェア」と置き換えればすっきりするかというと、そうでもない感じです。いつのまにか、定着したのでしょうか。

この間、学術的な論述の中にある「ハード」と「ソフト」を見たとき、さてどうしたものかと悩んだものです。極めつきは、「・・・などの『ソフト学問』に通じた・・・」という表現でした。ここでは、「ソフト」は本来の形容詞でしょうか?なんとなく分からなくもないのですが、日本語で精確な意味を表現できないような、あるいはそうしたくはないような場合に、カタカナ書きで「ハード」や「ソフト」を使っているのではないでしょうか。論述には適当なことばだとは思えません。

また、よく見るカタカナ語に「インフラ」があります。もちろん、「インフラストラクチャ」 (infrastructure) の短縮形(?)ですが、こちらは、infra- が接頭辞として

「下に,下部に (below)」の意 (#→supra‐).[株式会社研究社 新英和・和英中辞典]

とあります。普通に使っている「インフラ」はほとんどの場合、「インフラストラクチャ」ですが、これが長いので面倒になって短縮したのでしょうが、なぜ、「基盤」としないのでしょうか。

ここで、「日本語の乱れ」といったことを論じたのではありません。そうするには体系的な調査や断じるための根拠が必要でしょう。そうではなくて、「なんとなく雰囲気を伝える」カタカナ書きのことばが学術的な場面にも現れてきたことに違和感があることを伝えたいと思ったのです。

いかがでしょうか。