知を窃(ぬす)んで地に落とす

まことに残念なことです。いや、大学にいる者として、情けなく思います。それ以上に、責任を感じます。東京大学で学位授与が取り消されるという、重大なことがありました。

昨年の秋から、インターネットを通じて大きな話題になっていたことです。学位授与の取消しは剽窃、英語ではplagiarismによるものです。滅多に見ることばではないのですが、分かりやすくいえば「盗用」でしょうか。まさに、「知を窃(ぬす)む」ことが大学を「地に落とした」ということです。

大学の根幹的な役割の学位授与に瑕疵があったというわけです。社会に対する責任の重さを考えるにつけ、大学人として慚愧に堪えません。誤解を招くおそれがありますが、「こういうことがあるのか」というのが率直な印象です。学術に関わる者として、あらためて学問に対する謙虚さをもたなければいけないと思います。学位授与は大学、大学院のもっとも大事な機能です。社会に対して、学術を修めたことを証するわけですから、信頼できる限られた機関・組織にそれが認められてきたわけです。今後、いろいろな議論もあるでしょう。どうやら、新しい分野への視点をもった「論文」だったということです。学術の世界で新しい分野を拓くことはきわめて大事なことですが、そこに何があってもいいというわけではありません。

所属する研究科の近くにあり、しかも、以前に所属した研究科で起こったこの事態を深く考えることになりました。学内には他にもあるのではないか、といった議論になるでしょう。少なくともわれわれは学位授与に疑念が抱かれることはないと自信をもっています。

「剽窃」というのは程度問題ではないか、といった話も聞きますが、断じてそのようなことはありません。要は、学生の日頃の活動と成果をきちんと見れば分かることです。

こうした話とは別に、一方で学生の研究成果を「断じる」怖さも知らなくてはいけません。博士論文だけでなく、修士論文や卒業論文も同じでしょう。教育的で指導的な立場から、教員が同じテーマで考えることもあります。また、研究室の先輩が行った研究を引き継いで自身の研究にすることもあるでしょう。こうした学生の成果の中に、教員や先輩と一緒に得た成果を書いたときに、それをいきなり「剽窃」ということばで断じるというのは当たらないでしょう。若い人材に傷を負わせます。このような、過度な「剽窃」探しは「魔女狩り」になりかねません。

今回の件は、われわれにとっては本当に大きな課題を突きつけたことだといえます。今、私にはどうしてよいのか分かりません。大学が社会に責任をもち信頼を得るためにどうすべきか問われています。謙虚に考えたいと思います。

若手アカデミーとは?

今日は、大阪で開催された日本学術会議公開シンポジウム「若手アカデミーとは何か」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/90-s-1.pdf

に参加しました。この案内にあるように、ドイツ、オランダ、オーストリアではそれぞれの国で若手アカデミーが組織されて、活発に活動しているということです。また、ヨーロッパの40ヶ国のアカデミーの連合体ALLEA(All Europian Academies)でも、全欧で若手アカデミーを設立しようとしています。シンポジウムでは、ALLEA事務局長の講演がありました。さらに、2月にはベルリンで全世界的な若手アカデミーの設立準備の会合がありました。そこに出席した4名の若手研究者から詳しい報告がありました。

さて、「若手」は何歳でしょう?おおよそ、平均が35歳だということです。「アカデミー」の理念とは何でしょう?私は、わが国では日本学術会議の理念がそのままあてはまると思っています。実際、若手の方々の報告であがっていた目的はまさに学術会議の目指していることでした。

では、なぜ「若手アカデミー」なのでしょうか。わが国だけではなく、おそらく、他の国でも、アカデミーのメンバーは科学者・研究者の年輩層が占めていることの現れだと思います。大雑把に言って、25歳から40歳までの若手の科学者は、25〜70歳の科学者の1/3を占めるでしょうが、40歳以下の学術会議の会員は皆無です。

話が逸れますが、大学教員の職位は学校教育法によって決まっています。2007年4月に改定されて、職位は助手・助教授・教授から助教・准教授・教授に変わりました。この改定に伴う議論の中で、「若手研究者の自立性・自律性向上」が謳われ、「教授が白を黒と言えば、助手は何であれ『黒』と言う」だとか、「若手の研究に教授が口出しをして、若手は思ったように研究ができない」といった悪例を解消すべきである、といったことが話題になりました。正直なところ、「へぇ、今どき、そういう研究室もあるのか」と疑問に思ったものです。ないとはいえないでしょうが、どの程度でしょうか?データはあるのでしょうか?科学者はデータが基本であると言いながら、行政的な判断に与するときには、自らの経験や多勢の言動に惑わされる恐れがあります。年輩の老練の士は若手のことをおもんぱかって、よかれと思うことを断定的に言うのでしょうが、若手の方々はどう感じているのでしょうか。「助教」の若手科学者はこの職位の改定をどう思ったのでしょうか。

「老練アカデミー」でも、とくに、人材育成に関わる議論の中では若手のことを考えて、よかれと思う提案をしています。若手の方々の意見を聞いて判断しているのですが、それも老練者の考えの中でやっていることです。「聞いてやる」ということではないでしょうが、若手の方々の自律的な行動から示される意見とは違うのかも知れません。老練アカデミーの活動を批判的で建設的な目で見つつ、同じ課題に対して自律的に活動する「若手アカデミー」があれば、老練アカデミーの活動のチェック機構になるでしょう。科学には謙虚でなくてはなりません。科学者からなるアカデミーの活動でもそうでしょう。老練科学者には批判を活力に向ける智慧があるものと信じています。

最終講義を受講して

今日は最終講義のハシゴでした。南谷崇先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_1.shtml

と竹内郁雄先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_2.shtml

でした。

南谷崇先生の講義では、新たな情報社会への研究の視点の重要性についてお話しがありました。以前に「「・・・を科学する」こと」で触れたサービスイノベーション研究会でもお世話になりました。「情報社会学」という新たな学問への取り組みは、日本学術会議で取りまとめている「日本の展望」の提言「安全で安心できる持続的な情報社会に向けて」で取り上げた課題解決への一つの道筋が示されたように思いました。

先生の講義の中で、大学運営に関することは、以前より私自身が研究科長の職にあったときに感じたことでもあり、あらためて身に染みて今後の大学運営のあり方に関する示唆を与えられたと思います。

これまでにもうかがったことではありますが、現在の大学、あるいはその組織において、健全な運営のために考えなくてはならないことが教えられたと思います。とくに、組織において、研究企画を担当する人材の話は、私も同じ思いを持ったものです。当時には、南谷先生と密接にご相談したことはないのですが、同じ思いを持っておられて実践されたことを改めて認識いたしました。

最終講義は、先輩の先生のお考えや実際のご経験をお聞きする貴重な機会だと思います。これまでにも、折に触れてご意見をお聞きしたことはありますが、あらためて別の視点から、お考えをうかがうことができました。

この時期にはこうしてお話しをうかがうことで、自らの考えを確認する機会を得ることができます。

もう一つの竹内郁雄先生の講義についてはあらためて・・・。

内包表記と並列性忘却と

プログラムで扱う値の集合(や列)を表す表記法として、内包表記(comprehension)というものを備えているプログラミング言語があります。聞き慣れない方もおられることでしょうが、数学の集合を書き表す際に馴染みのある

{x | x ∈ A, P(x)}

のような表現法のことです。この表現は、集合Aの元xのうちで、条件Pを満たすようなxからなる集合を表すものです。

この表現は、2/16の記事「並列性忘却プログラミング」、 すなわちPOP (Parallelism-Oblivious Programming) でも注目しています。集合Aをxを生成する生成子(generator)ということもあります。Aを生成し、Pでテストするということを自然に表わていますので、Generate-and-Test の方式で解を得る一般的な計算を表現しているといえます。そして、この表現の中には、逐次的に実行しなければいけないというところがない(生成したものをテストするという順序だけ?)ので、並列化の自由度が高いという点で、「並列性を意識しないで並列プログラムを開発する」ことにピッタリだというわけです。

この表記法、目新しいようですが、いつからあったのでしょうか。

私がこの表記法でプログラムを書いたのは、D.A.Turnerによる関数型言語Mirandaのシステムを使ったときでした。しかし、集合論のZermelo-Frankelの名を冠して、ZF-記法と呼んで関数型言語に導入したのはMirandaの前身KRCだったようです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Miranda_(programming_language)

Mirandaが出たのが1985年といいますから、もう四半世紀になります。TurnerはMirandaの前身の言語SASLやKRCを公開してから、いわば、製品版としてMirandaを出しました。SASLのインプレメンテーションには驚くべきアイデアがありましたが、その話はまたの機会にします。そのアイデアをもとにMirandaが開発されたのです。

話が逸れますが、開発者のTurnerはMirandaのライセンスを販売する会社Research Software Ltd. を作ったようでした。私は使ってみようとして、そこからMirandaライセンスを購入しました。20年余り前のことです。金額は忘れましたが、大学で英ポンドでの購入手続きは一般的ではなく、手間取ったことを思い出します。Mirandaを使ったプログラム例が拙文

武市正人. 関数プログラミングの実際. コンピュータソフトウェア8 (1), pp.3-11, 平成3年(1991).

にあります。実行例に

“The Miranda System version 2.009 last revised 14 November 1989, “

とあります。内包表記はそのプログラム例にも現れています。

現代的な(といっても、四半世紀以上前の)SASLやMiranda、それに最近のHaskellなどの関数型言語の表現法の原型は、1966年のISWIMにあるといえます。

http://en.wikipedia.org/wiki/ISWIM

しかし、プログラミング言語に内包表記を導入したのは1980年頃のKRCが最初でしょう。D.A.Turnerの卓見だといえましょう。

われわれがPOPの実験を行っている言語Fortress

http://projectfortress.sun.com/Projects/Community

にも入っています。

計算のステップを感じさせない水準の高いこのような記法がPOPの中核となるでしょう。

百聞は一見に如かず

2月半ばに始めたこのBlogも3月を迎えました。

慣れないことでしたので、ときには力任せに長々とした文章をかいてしまったこともあったようです。Blog全体のタイトルが殺風景だということも気になっています。なにか、キーワードがあれば書きやすいのではないかと思い、ふと、思い浮かんだのが「百聞は一見に如かず」でした。

どうやら、私はけっこう、やってみようとするたちのようです。もっとも、ものによりますが・・・。「百聞は一見に如かず」は広辞苑によれば、

[漢書趙充国伝] 何度も聞くより、一度実際に自分の目で見る方がまさる。

とあります。英語では、研究社の新英和・和英中辞典では、

Seeing in believing.

がピッタリのようです。あるとき、「『理論』も大事だが、それにも増して『実践』も大事」ということを示すのに、英語で

An ounce of practice is worth a pound of theory.

という諺を使いました。最後の”theory”のところを”precept”、あるいは”preaching”とするのがもとのことばのようですが、それだと、「百の説教より一の実行」になってしまい、上からの目線という感じがします。教え諭すときに、何度も説教するよりも一度、実践した方が効き目があるということだそうです。

それよりも、理論に関わりをもっている者が実践を軽んじることがないようにと、practiceとtheoryを使おうというのが私の気持ちです。ソフトウェア科学の研究をやっている中で、情報技術の発展を実感しながら、情報社会で実践することを通して、いろいろなことを学びたいと思います。「百聞は一見に如かず」とピッタリかどうかは疑問ですが、もう一度、

An ounce of practice is worth a pound of theory.

日程調整ツール

先日、「メールの添付ファイル」で日程調整のためのメールの添付ファイルのことに触れて、それは手がかかるのではないかと書きました。それでは、メールで調整というのでなければ、どのようにすればよいでしょうか。

私は「調整さん」

http://chouseisan.com/schedule

というサイトを使わせてもらっています。

研究者は自らのスケジュールで行動している人が多いので、定期的な会合予定はともかく、不規則に発生する会合のための都合を合わせるのは一苦労です。大学では学位論文の審査を行うときの審査員の日程調整がたいへんです。われわれのところでは、5名以上の教員によって審査会を開きます。ほとんどはおなじ大学のおなじ研究科に所属する教員なのですが、それでも都合のつく時間帯はまちまちです。出張で不在、といったこともあります。

組織に導入されているグループウェアで日程調整ができることもあるでしょうが、グループウェアでは私的な呑み会の調整はできないでしょう。「調整さん」以外にも、同様のサービスがあるのではないかと思いますが、これは無償で提供されていてなかなか便利です。

メールの添付ファイルで日程調整をするときには、幹事役の都合のつく時間帯を候補日時として、各メンバーから都合のよいところをマークしたファイルを返送してもらうということになります。このやり方では、メンバーはふつう、他の人の都合は見ないままに回答するでしょう。しかし、「調整さん」のサイトでは、メンバー全員の回答の様子が分かりますので、他の用務と重複するようなときにも、自分の予定の変更に努力するといったことが期待できます。そこにはメンバー相互の関係(?)によるところがあるかも知れません。その意味では、けっこう、人間味のある日程調整ということになるでしょうか。

実際の利用法は上記のサイトで確かめていただきたいと思います。もちろん、セキュリティに深く関わりがあるような場合には適していません。日程調整の段階では、会合の詳細や、メンバーが特定されないように注意すれば済むことですが、気になる方もあるでしょう。このように、どのようなときにも使えるというわけではないのですが、幹事役はもちろん、メンバーも登録する必要がないという、こうしたツールの方が、利用者をガチガチに決めたシステムより簡便だといえます。

「・・・を科学する」こと

名詞に「する」をつけて動詞として使うのはあまり好きではありません。しかし、数年前に、「サービス」を科学的に捉えようという新たな考え方に共鳴して、大学における産学連携研究会のお世話をしたときには、「サービスを科学すること」と題してキックオフの基調講演をしました。2006年10月13日のことでした。

http://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/kyogikai/forum/forum7.html

それから2年余り、産学連携でこのテーマについて共同でサービスイノベーション研究会を開催して、2009年2月23日に報告書とそれに基づく提言書をまとめ、3月9日にはその報告を兼ねてフォーラムを開きました。提言書と報告書は

http://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/service-innovation/index.html

にあります。

「・・・を科学する」というのは、私には魅力的な言い回しです。科学的方法を追究するということを、これほどまでに簡潔に表現することばが見あたりませんでした。最初に書いたように、「名詞+『する』」は気持ちが悪いのですが、それにもかかわらず、このことばを使いました。ひょっとしたら、新しい分野の創成といった(私にとって)未知の領域の科学を探ろうという気持ちがあったからかも知れません。

さて、上にあげたURLのページには、提言書を英訳したものも置いてあります。提言の冒頭には、

「われわれは2006年10月から2年半にわたり、産学連携によるサービスイノベーション研究会において「サービスを科学する」視点の確立によるイノベーションに向けた議論を行ってきた。」

というくだりがあります。英語版ではどうでしょうか。

For over two-and-a-half years, commencing October 2006, discussions have been held under the Service Innovation Research Initiative in a collaboration between industry and academia with an eye towards realizing innovation through the establishment of a perspective based on Scientific Study of Services.

となっています。もちろん、全般的に逐語訳ではありませんが、ここでは「科学する」を “Sciencing” とは言っていません。”Sciencing” も聞き慣れない単語で、英語の「・・・する」風の造語でしょうが、Webで検索するとかなり使われていることが分かります。

実は、こういうこともありました。2008年5月21日にシンポジウムISAS2008

http://www.rel.hiroshima-u.ac.jp/isas2008/

で研究会の概要を話すようにと依頼を受け、英語版の説明スライドを作りました。そのときには、2007年10月12日付の提言について述べましたが、そこには、”Sciencing Services” という表題のページがありました。スライドではつねに引用符をつけた単語として “Sciencing” を使っています。

それから10ヶ月後、2009年の提言書を英訳する際には、”Sciencing” についてかなり調べました。ISAS2008は口頭での発表だったからというわけではないのですが、そのときには時間的にも十分に調べることができませんでした。白状しますと、そのときから、本当にこれでよいのか、と気になっていたのです。

いくつか、根拠となることはあるのですが、手元にある控えでは、たとえば、

http://www.science.ca/askascientist/viewquestion.php?qID=3432

にあるように、新語として “Sciencing” が使われたのは幼児教育の場であるということです。現在もその分野ではよく使われているようですが、もちろん、「対象物を科学的に取扱う」という、一般的な使い方も少なくありません。

しかし、「サービス」を対象とする場面で、新しい用語を使って誤解を招くのはよくないと考えました。そこで、2009年の提言書では「サービスを科学すること」を “Scientific Study of Services” としたのです。もっとよいことばがあるかも知れません。

さて、昨日の記事「規制を緩和するということは」の中で、「今日、1件、申込みしました」と書いたのは、「サービスを科学する」と題したフォーラム

http://www.prime-pco.com/ss-jst2010/

のことでした。やはり「・・・を科学する」は魅力的です。

規制を緩和するということは

ものごとを決める議論の中で、効率的で効果的な方策を提案したときにも、それが窮屈だと、その規制や制約を緩和する方向の意見が出ます。ひとたび、そのような意見が出ると、結論がその方向に進みがちになるということは往々にして経験します。

しかし、一方で、2009年1月12日から施行された米国の入国制度ESTAの手続きには、少々、驚きました。日本の外務省も

http://www.mofa.go.jp/mofaJ/toko/passport/us_esta.html

で案内しています。Electronic System for Travel Authorization (電子渡航認証システム) というのですから、そうかと思えるところもあるのですが、なにしろ、専用のWebサイトからしか申請できないというのです。紙媒体の申請はもちろんのこと、大使館等の窓口で申請するということさえ排除しています。

ここには、情報力格差(ディジタルデバイド)への配慮といった観点は見られません。なるほど、こういった決定もあるのか、と思ったものです。これは、規制というわけではありませんが、より広い可能性は排除して、一つの方向づけに強制してしまった例でしょう。これを「緩和」するところは、手数料収入を得て代行するという民間のサービスに委ねたというわけです。

最近では、わが国でも(参加費が無料の)シンポジウムなどでは、Webを通じてのみ受け付けるという例も増えたように思いますが、それも「無料」だからかもしれません。今日、1件、申込みをしました。

このように、情報技術によって効率的な方法をとろうとすると、それ以外の可能性を制約してしまうことは往々にして起こります。そして、こうしたシステムを導入しようという議論になると、「従来型の」FAXや文書でも受け付けることにすべきだ、という緩和策が出てくるのです。結局のところ、新しい試みは従来型のものと併用することになって、かえって手間がかかるということにもなりかねません。痛し痒しといったところです。

もちろん、情報力格差への配慮は必要ですが、対象とする人たちの範囲が特定できるようなシステムでは、うまく合意形成をして効率的な方式をとるようにすることもできるでしょう。また、非常に難しいことでしょうが、一般利用者向けの情報システムでも、そのアキレス腱ともいえる「従来型との併用」システムの解決策を考える時期にきているのではないでしょうか。「規制緩和」が「正論」ではあるのですが、どこかで「規制する」ということも必要ではないかと思います。

メールの添付ファイル

最近、ファイルが添付されて届くメールが多くなっているような気がしています。どの程度か調べてみました。10年少し前から、やりとりしたメールを保存していますので、それを使いました。メールアドレスは仕事用のもので、もちろんのこと、スパムメールは除いています。

まず、送受信メールの状況は、以下のようでした。2006年まで単調に増加していますが、2007年から少し減り気味です。振り返ってみても、2004年から2006年までは仕事の面でやりとりが多かったと思います。

最近は全メール数に占める発信・返信の比率は20%強といったところです。もちろん、自らが発信するメールもありますので、メールを受け取ってから、求められている返信をしたもの、あるいは求められていなくても返事したものというのは5通に1つはないといえます。普通、そのようなものでしょうか。

メール数 発信数 比率
1999 6074 1573 0.26
2000 8005 2082 0.26
2001 8550 2214 0.26
2002 11217 2958 0.26
2003 12452 3717 0.30
2004 14522 3873 0.27
2005 15845 3568 0.23
2006 20725 4356 0.21
2007 14437 2975 0.21
2008 13526 3014 0.22
2009 12120 2667 0.22

一方、ファイルを添付したメールの数は以下のようでした。

メール数 添付メール数 比率
1999 6074 89 0.01
2000 8005 317 0.04
2001 8550 687 0.08
2002 11217 996 0.09
2003 12452 1539 0.12
2004 14522 2320 0.16
2005 15845 2384 0.15
2006 20725 2546 0.12
2007 14437 1795 0.12
2008 13526 1915 0.14
2009 12120 1787 0.15

10年以上前には数%だったのですが、その後、次第に増えてきた様子が分かります。全メールに占める割合が15%というのですから、多いと感じるのも当然でしょう。

最近、MS WordやExcelのファイルが添付されていて、それに書き込んで返送するように指示されたメールを受け取ることが多いように感じます。このようにして受け取った添付メールの返信はまた添付メールになりますので、添付ファイルの送信者は上の統計に2倍の貢献をしているといえます。とくに、会合のなどの日程調整のために、日付を書き込んで都合を記入するようにというExcelファイルが多いと思います。

私はこの日程調整のような添付メールは好きではありません。こういった意見を持っている人は少なくないでしょう。多くは、メールの本文にテキストで返信用の項目を書けば済むことを、どうして添付ファイルを使うのでしょうか。人それぞれにメールを読む環境は違うでしょうが、少なくとも、日程調整のために別のアプリケーションで添付ファイルを開いて入力をするというのは面倒ではありませんか。

メールは次第に、小包や宅配便につける送り状のようになってきているのかも知れません。本体は添付されたファイルだというわけです。このような流れが続くとなると、とくに、添付ファイルの大きさへの関心も薄れそうです。今では、平気で4MBのファイルを添付して送ってくる非常識な人がいます。以前からネットワーク利用時の「常識」が問われていましたが、ますます、リテラシーを身につける必要性があるといえるでしょう。

「たとえば、・・・」ということ

現象を観察して一般的な帰結を説明するときや、論理的に結論づけられる一般的なルールをわかりやすく説明するときには、一般論を述べた後で、「たとえば、・・・」という表現を用いることがよくあります。とくに教科書など、説明を補強するときによく使います。また、専門的なことを一般の方々に説明するときにも使うことがあります。

しかし、この「たとえば、・・・」も結構難しいところがあります。まず、第一に、そこで述べることが、本当に、一般的なものの例になっているかどうかということがあります。正しくない「事実(?)」を例えにあげるのは論外ですが、そうでなくても、うっかりすると、読み手が納得してしまうようなこともあります。その事実を確認する手間が大変な場合には、その例が一人歩きしかねません。

先日、行政における電子申請の実態に触れた文書を共同で用意していたときに、利用度の低いシステムの事例として「○○電子申請システム」を示したところがありました。文脈からは、それはそれで(そのようなシステムが実現されていたとすれば)納得できるものでした。しかし、そのようなシステムはどうやら実現された形跡がないのです。うっかりしていましたが、チェックの段階で気づいて事なきを得ました。冷や汗ものでした。

40年以上前の学生の頃に教わったことを思い出します。数値積分法にシンプソン則 (Simpson則) というものがあります。積分区間を等間隔hで区切った点の関数値で定積分の値を近似しようとするものです。当然、誤差が出ますが、その誤差がhの3乗に比例することは解析的に求められます。教わったのは、その計算法を「たとえば、・・・に適用してみると」という実例です。

計算の誤差を見るのですから、真の値が簡単に計算できる例が必要だということは分かります。もちろん、本当にシンプソン則を使うときには、解析的に真の値が得られないからこそ近似するわけですが、ここでは計算法の理解と誤差の見積りを学ぶところですから、代表的な被積分関数を適当な区間で積分したものが例になるでしょう。当時、教わったのは、1/(1+x*x) を区間 [0, 1.2] で積分するものでした。この被積分関数の不定積分は arctan(x) ですから、区間 [a, b] で積分した真の解は arctan(b)-arctan(a)として求められます。とくに、a=0, b=1 ならば 45° の角ですから π/4 として筆算で求めることもできます。では、なぜ、この例では b=1 ではなく b=1.2 だったのでしょうか。講義ではその種明かしもされました。

シンプソン則の誤差は、細分区間幅hの3乗に比例するのですが、その係数は被積分関数f(x)の3次導関数によって表される(f”’(b)-f”’(a))に比例するということが分かります。ところが、ここで扱っている例では、f”'(1)=0,  f”'(0)=0 となって、b=1の場合にはhの3乗の係数は0になってしまいます。もちろん、これは誤差が0というわけではなく、実はhの5乗に比例するという特異な場合になっているのです。そこで、講義で教わったのは、一般的な場合の b=1.2 だったというわけです。ここまでの種明かしがあったからこそ今も憶えているのかも知れません。

当時、別の教科書で、その本質に気づかずに b=1 の例をあげてあるものがあったので、「見かけで信用してはいけない」「まねをしても馬脚を現す」ということも教わったのです。同時に、「たとえば、・・・」の怖さも知りました。大昔のことではありますが、印象に残っています。