Category Archives: Diary

久しぶりの投稿

まったく、久しぶりです。

1年以上前に書いて以来です。昨年からいろいろなことがありましたし、なによりも、東関東大震災と福島第一原発事故は私の考え方や気持ちに大きな変化を与えたようです。

これから、折に触れて、また、書いてみたいと思います。

教育プログラムの競争的資金

大学人が会うと、よく「現在のわが国の大学が疲弊している」という切実な話になります。とくに、教育にあてる経費が厳しくなっている実感があるということでしょう。

文科省では、数年前から「大学教育改革支援事業」として、10を超える支援プログラムを立ち上げ、公募して選考し、実施してきています。よく知られた「21世紀COEプログラム」やその後に実施されている「グローバルCOEプログラム」も教育に関わりがありますが、これらは教育研究の「拠点形成」を目的にしています。平成21年度(2009年度)の状況は

http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/index.htm

にありますが、「平成20年度以前のプログラム」というのが多いのが目につきます。

少し古いのですが、平成19年度の大学教育改革支援事業(COEプログラム等を除く)の支援経費は約200億円でした。うち、国立大学に62%の121億円が配分されていたということです。同じ年度の運営費交付金の総額が約1兆1000億円ですから、1.1%相当額ということになります。運営費交付金は、いわば、大学の基盤経費で、人件費や施設維持等、もろもろの経常的な経費を含んでいますので、大学の規模によるところが大きいといえます。この経費が年々、減額されていくことに大きな問題があることはいろいろと指摘されているところです。一方で、それを補完するかのように教育プログラムに競争的資金が投入された側面があります。教育面ではとくに継続性のあるプログラムの実施が必要であるにもかかわらず、2年間の計画を求めるというものさえある状況です。また、公募されるプログラムの内容に関して、すでに一部でも実施しているようなところには、「もう支援は必要ないのではないか」ということにもなりかねません。競争的な環境では、教育の場でも「新規性」が問われるのでしょうか。

さて、このような競争の場に置かれた教育プログラムですが、法人化以前からほぼ固定的である大学間比率の運営費交付金と、競争的教育経費の獲得額比率を対照して見ると、興味深いところがあります。プログラムに応募して獲得した経費の偏在がみられるということです。額としては後者は1.1%と少ないのですが、運営費が減少してゆく中で教育支援の経費という点では得難いものです。一部の大学に偏っているというのは、もちろん、大学の積極的な取り組みの結果であるということもできるでしょうが、一方で、教育という短期的成果の見えない事業に対して、基盤的経費から競争的資金へと移ることによる問題もあるのではないでしょうか。

・教育経費を競争的な場に置いたことによる地方大学の疲弊
・短期的研究課題、「役に立つ」研究指向で基礎科学分野が崩壊
といったことには、その状況の検証とともに、大学人が真摯に検討すべきことであるといえましょう。

「競争原理」が施策として推進されてきた中で、教育研究の現場の声がかき消されて、大学が崩壊しつつあることへの懸念を感じているということです。情報分野では、数年前から産業界(の一部)から大学教育への疑問が出され、「実践的教育を重視せよ」という声が高まり、これを教育プログラムとして競争的資金の枠に設定し、ところによっては産業界からそのための教員を送り込むということも出てきています。

どこに焦点を当ててよいのか難しいところがありますが、学術界から学術行政に対する「科学的な検証」を行う必要もありそうです。

「人材」と「人財」

しばらく前から、「人財」ということばを目にすることが多くなりました。Googleで検索すると、かなりの件数があります。もちろん、われわれが長い間、使ってきたのは「人材」です。

「人財」ということばを主張する方々は、おおむね、「人材は人を材料として扱っている」が「人を財産として扱うべきだ」という考えによるもののようです。もちろん、ニュアンスの違いはあるかも知れません。

最近、政府の「科学技術基本政策策定の基本方針(素案)」が示されました。そのなかに、「人財」が現れているのです。「Ⅳ. 我が国の基礎体力の抜本的強化」の中には、「4.科学・技術を担う人財の強化」とあります。それ以外の場所にも、随所に「人財」が現れています。どうしてこのような使い方が一般的になったのでしょうか。

「材」は材料、「財」は財宝ということで、「人を価値のある」ものと捉えるために「人財」を使うべきだとの主張がそれほどまでに受け入れられているのでしょうか。公的で影響力の大きい文書の中で、定着していない(と思われる)語呂合わせによる表記を安易に用いるというのもどういうことでしょうか。もっとも、私自身、国語学を専門とする者ではないので、学術の世界からどのような判断がなされるのか分かりません。また、ことばが時とともに変わってゆくことも知らないわけではありませんので、今がその時期だといわれても驚きませんが、それでも変だと思います。

「材」は「人材」だけに現れるのではありません。「材料」以外に、「才能」としての用法が定着していることを認識すべきではないでしょうか。また、「人財」ということばは「人」と「財」という感じがしなくもありません。さらには、「人」に関して、積極的に金銭的な価値を重視した感じを与えるのも望ましくないでしょう。

このような(語呂合わせのような)ことばを公的な文書に見ると、背中がむず痒くなってきます。参考のために、辞典から「人材」の項を引用しました。ちゃんと、「人の能力」ということが示されているではありませんか。「人財」という用法は見つかりません。

(参考)[広辞苑 第四版]
ざい【材】
#建築などに用いる木。また、原料となるもの。「木―」「―料」「―質」
#用いて役に立つべきもの。「教―」「題―」
#生れつき有する能力。また、それを有する人。「人―」「適―」「国家有用の―」
ざい【財】
(呉音。漢音はサイ)
#価値のあるもの。とみ。たから。所有物。「―を築く」「―産」「―宝」「資―」
「家―」「―布(さいふ)」
#〔経〕人間の物質的・精神的生活に何らかの効用を持っているもの。それを手にい
れるために何らの対価をも必要としないものを自由財(空気、川の水の類)、必要とす
るものを経済財という。
→#―を成す
——–

いかがでしょうか。

研究用ソフトウェア環境の整備

しばらくBlogを休みましたが、その間に、Mac OS Snow Leopard上に関数プログラミング言語Haskellの環境の整備をしました。

Haskellは1998年版が基準になっているということで分かるように、かなり歴史がある言語になりました。コンパイラはGlasgow版のGHCが一般的です。最新版のGHC6.12.1をインストールしましたが、その道筋は単純ではありませんでした。

以前に書いたPOPP(Parallelism-Oblivious Parallel Programming)の実験のために、GHC6.12.1をインストールしようと考えたのです。一方で、並列実行のプロファイルをとるツールとしてThreadScopeが開発されているのですが、これは、Gtk2hsというGUIライブラリを使っていて、GHC6.10.3でコンパイルする必要があるというので、バージョンの違うGHCを使い分けるという複雑なことになっていたのです。

詳細は省きますが、ともかく、2日がかりでこのあたりの事情はよく分かりました。これから、POPPの実験を始めようと考えています。今年度の卒業論文でT君が試みたものの、GHC6.10.4のランタイムシステムの並列実行の挙動がよく分からなかったところを追試してみたいと思います。

研究のための環境を整えることも研究の一環です。ソフトウェアの環境の整備は他に比べて楽だと思うのですが、最近は、なかなか複雑になっていて、手がかかります。終わってしまえば、そういうものかと分かるのですが、その過程ではいったいどうなるのか、やめた方がよいのではないかと思いながらも時間をかけて、環境整備を行ったことはよい経験でした。こういう作業も久しぶりでしたが、現状がよく分かりました。”An ounce of practice is worth a pound of theory” といえるでしょう。

Blogの自己分析

Blogを始めて、ほぼ一月。明確な対象も決めないままに、いろいろなことをいろいろな形で書いてきました。自分自身のメモのようなものもあります。

最近、カテゴリーを増やして、Diaryだけでなく、「研究トピックス」、「大学関係」、「学術一般」、「情報社会」、「その他」というふうに分けてみました。これまでの全32件について、(重複がありますが)カテゴリーを見ると、この5つのカテゴリーにほぼ、均等に書いているようです。

カテゴリー分けがしづらいのですが、「論調」といったことで、「情報提供」、「意見表明」、「意見伺い」のように分類してみました。これも重複があるのですが、「研究トピックス」の5件はもっぱら「情報提供」で、研究の話題を分かりやすく紹介するつもりであったことが分かります。研究で主張するのは、論文になりますから、当然といえば当然でしょう。

「大学関係」では、「意見表明」をしつつ「意見伺い」というものが多いのですが、明確に意見を書いたものが6件ほどありました。

「学術一般」では、「情報提供」2件、「意見表明」4件、「意見伺い」2件でした。

「情報社会」というカテゴリーには、さまざまなものを入れましたが、情報技術やツールに関するものも含んでいます。「情報提供」2件、「意見表明」1件、「意見伺い」2件。

「その他」には、用語や文体のような話題から、この記事のようなものまでさまざまですが、7件ほどがありました。

「意見表明」については、うっかりすると「愚痴」にならないとも限りません。ある方から、そのようなご注意もいただきました。本人はそのつもりでなくても、どのような意図をもってBlogで発信するのかということを明確にしないと、誤解を招く恐れがあるということだと思います。意見を表明するにしても、それを主張するほど強いものではないと思っていますが、それでもなお、「なぜ、他の手段ではなくBlogで発信するのか」と問われると、今は、明確な目的を答えられません。もちろん、他の機会に同じような意見を述べているのですが、その上で、Blogで発信するのは、かえって、「愚痴っている」ととられかねないということです。こういったことには気がつきませんでした。

このBlogを始めたきっかけはいろいろあるのですが、まずは、情報社会における情報発信のツールを使わずして、情報社会に口を出すのはおこがましいという気持ちからです。2月初めにtwitterを始めてみたものの、どうも性に合いません。遅ればせながら、Blogを経験してみようと始めました。これまでにも、専門家相手の論文以外に、教科書や解説といった文章も書いてきましたので、書くこと自体は慣れているつもりですが、Blogでの発信はやはり違うようです。長きにわたって社会に定着した書物とは違った形のBlogというメディアでは、発信者と受信者の関係が(匿名性を含めて)一種の「おもむき」を作り出しているようです。

この一月の経験をもとに、今後も継続して発信したいと考えています。

大学教員の流動性

この時期、大学では恒例の退職教授惜別会が開かれます。今年は、われわれの研究科でお二人の先生が定年で退職されます。

大雑把に言って、研究科には30名の教授と70名の准教授・講師・助教がいます。研究科ができてから満9年、この間、これまでに8名の先生方が定年退職していますので、今年で10名ということになります。これも大雑把ですが、平均して毎年1名の教授が退職するといってよいでしょう。30名の教授で全100名の教員からなる組織で、この数はどうなのでしょうか。

これだけの情報からでは、「1年で1%しか入れ替わらない膠着した組織」といったイメージが浮かぶかも知れません。しかし、実態はというと、外部からの教授の就任や、若手の教員の入れ替わりがかなりあります。2004年度から3年間に(内部の昇任を除いて)新規に採用された教員は約30名でした。100名の組織で年平均10名が新規に採用されたのですから、毎年10%の入れ替わりがあったということになります。任期制のポストはありませんでした。

組織の性格によって違うでしょうが、年間に10%の教員が入れ替わっているというのは、継続的に教育を行う研究科としては適正なものだと思います。他の組織ではどうなのでしょうか?任期制によって流動性が高くなるということがあるのかも知れませんが、そのような制度がなくても流動性は保たれているといえるでしょう。

一般に、「膠着した組織」という大学像が多く報じられますので、それが社会に印象づけられてしまいます。それを解決するために、「流動性を高めるために任期制を導入する」という「名案」を生み出したのでしょう。しかし、これでは、組織の自律性を無視して「制度」に頼ることになってしまいかねません。

2010/2/20に「大学の国際化の目指すものは?」を書いたときとおなじ思いがあります。大学人は特別なプログラムや制度がなくてもできることをやるというのが筋ではないでしょうか。

シミュレーション技術と計算機科学

今日の夕方、JSTの「シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築」領域の打上げ会があります。7年ほど、アドバイザとしてお手伝いしました。というよりも、むしろ、各プロジェクト実施の研究者の方々から計算科学の実態をお教えいただいたように思います。これまでにも取り上げたことのある Parallelism-Oblivious Parallel Programming (POPP) という考え方が大事ではないかと思ったきっかけの一つだといえます。

余談になりますが、以前から、どうしようかと迷っていたのですが、Parallelism-Oblivious Programmingよりも、上に書いたPOPPのほうが誤解がないと考え、これからはPOPPにしようと思います。一月前、2010/2/16の「並列性忘却プログラミング」にもそのようなことを書きました。

モデル化を行ってシミュレーションによって物理的・化学的な現象を検証するというアプローチを「計算科学 (computational science) 」と呼ぶのが一般的でしょう。そこでは、スーパーコンピュータが活躍しますが、そのために(並列)プログラムを開発することが大きな課題となります。このような計算科学は、「理論」、「実験」に続く第3の研究方法論だそうです。科学の方法論には詳しくありませんので、このようなメタな議論には参加できません。しかし、シミュレーション技術が自然科学の方法論に影響を与えたことは分かります。

計算的手法による研究は多くの分野で一般的になってきています。いくらか抽象的ですが、計算科学を超えて(?)既存の知を高度に活用する第4の方法論として 「E-サイエンス (E-science) 」というものもあるそうです。目新しい用語に人が群がる姿はこれまでにも多くありましたが、ことばにしても概念にしても外国からの移入がほとんどです。E-サイエンスについては、計算科学とどこがどう違うのか、概念やねらいを正確に理解してから考えたいと思います。

このように、もう第4の足音が聞こえてきているところだそうですが、それでもなお、第3の方法論と言われる計算科学の核となるシミュレーション技術が多くの分野の研究を支えることはたしかでしょう。その基礎となるプログラム開発の手法、プログラミング方法論など、「計算機科学 (computer science) 」の研究が縁の下の力持ちとして支えることが大事だと思います。新たな方法論だけに向かうことだけでは困るでしょう。

今夕の打上げの後のことはまたいつか書くことにしたいと思います。

プログラムのレイアウト

昔から、プログラムの表記法にはいろいろな話題が尽きません。

今でも、多くのプログラミング言語は英字、数字、記号などの文字(いわゆる、ASCII文字)で書くのがほとんどだと言ってよいでしょう。それを1次元の文字列として考えるかどうかということもあります。さすがに、今では、大昔の(いわゆる)IBMカードを重ねたカードデック(カードの束)のように、物理的に2次元(?)の形状をとることはないでしょう。

最近は、Emacsに言語ごとにモードが設定できて、賢いレイアウトを行って、読みやすいレイアウトが自然にできるようになっています。1次元の文字列のプログラムを2次元にレイアウトして分かりやすく表示しているわけです。

関数型言語では、かなり前から、レイアウトによって区切り記号(デリミタ, delimiter)を省略しようとするのも一般的になっています。Haskellにも「オフサイドルール」が使われています。大雑把に言えば、前行よりも前に出ない部分はその前の行の文法上の構成の中の部分要素になっているというものです。また、一列に書くときにセミコロン(;)で区切るところを改行によって代用することもあります。

「オフサイドルール」は、1966年にLandinが提案したISWIM

http://ja.wikipedia.org/wiki/ISWIM

にすでに現れているということです。ISWIMは実用的な言語ではありませんが、その後の関数型言語の設計に大きな影響を与えたものです。Landinは英国人だからというわけでもないでしょうが、サッカーやフットボールのオフサイドと発想に関連があるかも知れないと思ったりすることがあります。

http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_J._Landin

2/16に「並列性忘却プログラミング」のことを書きましたが、最近、ときどき、Fortressという新しい言語を使ってみています。

http://projectfortress.sun.com/Projects/Community

この言語、大胆な試みが行われているのですが、なかでも、乗算(数のかけ算)の演算子は「とくにない」、いいかえれば、数学で普通に書くように、「空白」だというのです。一般のプログラミング言語で使うアステリスク (*) のように、目に見えるものは使わないのです。先日も、うっかりしていて、空白を一つ置いたのがエラーだというのが分からなくて難儀しました。もちろん、意識して乗算を表すときはよいのでしょうが、レイアウトの関係で空白を置いてしまったら、そこに乗算演算子があるというのは、なかなか気がつきません。

プログラムの表記を数学の表記に近づけるのはよいのですが、「幼児体験」としての先入観が邪魔をするところもあるようです。

「学術」とは?

以前に「Scienceは「理科」?「科学」?」という話題で私見を述べたことがあります。また、日本学術会議も話題にしたことがあります。

“Science” の日本語訳のことを言っておきながら、「学術」を英語でどう表現するのか、私には分かっていないことに気づきました。日本学術会議の英語名は “Science Council of Japan” です。

「学術」ということばは、[広辞苑 第四版]には

①学問と芸術。
②学問にその応用方面を含めていう語。「―雑誌」

とあります。また、[岩波国語辞典第六版]には、

学問。「―雑誌」「―論文」#学問と芸術、または学問と技術とをふくめて言うこともある。

と書かれていて、「学問と芸術」あるいは「学問と技術」と明示してあります。「学問と○術」を簡潔に「学術」にした感じがするのですが、どうでしょうか。要は、「学」の「術(すべ)」ということでしょう。とはいっても、「すべ」というのはまた、含みのあることばだと思います。

さて、「学術」に対応する英語はどうかというと、[研究社 新英和・和英中辞典]

science; 〈学識〉 learning; scholarship 《★英語に「学術」にぴったり当てはまることばはない》

のように、ピッタリとしたことばがないと書いてあります。

たしかに、日本学術会議はわが国を代表するアカデミーとして国際的な学術団体として位置づけられていますが、多くのアカデミーではカバーしていない「人文・社会科学」分野を含んでいるという特徴があります。現在の日本学術会議は3部から構成されていて、第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)がそれぞれ1/3を担っています。詳しくは学術会議のホームページ

http://www.scj.go.jp/

を参照していただきたいと思います。人文・社会科学を含めている “Science Academy” は、国際的にも特徴的ですが、国際規模の課題の解決に学問が対峙するためにも、最近はむしろ日本学術会議のようなアカデミーの形が評価されていると思います。

つまり、「学術」というのは、狭義の(自然科学)を指す “Science” ではなく、人文・社会の分野、および工学分野をも含む「学問と○術」を包括的に表していることばだと理解してよいのではないでしょうか。これが、日本学術会議の英語名にあるように、”Science” のあらたな概念になるのではないかと期待しています。

大学における「人材育成」

昨今、「人材育成」がよく話題になります。それだけ、難しいことだということでしょう。

大学でも、あるいは学界でも「人材育成」が議論されることは多いのですが、産業界や企業におけるものとは少し違うように思えます。大学や学問の世界で、「人材を育成する」ことはどういうことなのかと考えます。大学では、よく、「人材育成」という文脈で「教育」が議論されます。「大学教員は研究に力を注ぐあまり、教育がおろそかになっているのが問題だ」というのは、人材育成という課題にとって問題だといっているのでしょう。

「人材を育成する」というのは、どうも、上から目線といった感じがして、大学という場に適当なのかどうか、疑問に感じます。大学生は学問の途に入ってきた大人です。教員と学生が議論を戦わせて互いに自己研鑽を積むというのが本来の大学の姿だったわけです。いつの間にか、「教員が学生という芽を育てる」というのが当たり前になったようです。大学の大衆化ということでしょうか。

長年、大学にいると、ときに、「いい人材を育てることが使命だ」と言ったり、「多くの人材を育てましたね」と言われたりすることがあります。しかし、私の実感は、「いい人材が育つようにする」ことが使命であって、「多くの人材が育った」ことを喜ぶといったところです。

技能を身につける、スキルを磨く、といったところでは「育てる」教えが必要でしょう。英語力を高めたり、今では情報リテラシーを修得するといったことはこれにあたるでしょう。しかし、それらは英語学や情報科学といった学問体系を学ぶこととは違います。学問を学ぶことは、自らの見識でものごとを見る力を身につけることですから、一方的に教え込むようなものではないと思います。教員は学生の手助けをするに過ぎません。教員もそれによって学ぶわけです。

大学教育の中にも、もちろんそのようなコースも必要ですが、すべてをそのような向きに進めようとすることは疑問です。産業界からの要請もあって、大学院課程で実践的なコースを試行するプログラムがいくつか行われています。そこでは、カリキュラムに基づいて教材が開発され、それにしたがった特定の講義と実習だけで修了できるようにしている大学もあります。形にはめてしまえば人材が育つのかどうか?一定数の修了生は出るでしょうが、体系的な知識と技術とともに、見識を身につけた人材が育つのかどうか?「教え込む」ことを過信しないのがよいと思います。