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国際ワークショップの開催場所

われわれはほぼ毎年、研究室(まわりの関係者)で主催する国際ワークショップを開いてきています。最近は、科研費の研究課題の「双方向変換」に関わるものが多いといえます。分野によっても違うでしょうが、われわれの場合には全体で30名、内、海外からの参加者が10名〜15名といったところです。

今日の夕方から、ワークショップの場にきています。今回は海外からの参加者は19名です。
http://www.biglab.org/4th-Btrans/#links

ワークショップは国際会議と違って、研究途上のアイデアや、場合によってはすでに発表したものの紹介など、交流を深めるために有効だと思います。とくに、国内で開くときには、学生にも参加してもらって、国際的な視野をもって研究を進める刺激を得る機会にしてもらっています。

いつも話題になるのは、このようなワークショップを開く場所のことです。経費のこともありますが、運営にかかるオーバーヘッドを少なくしたいというのが一番の大きな課題です。

今回のパレスホテル箱根でワークショップを開くのは3回目です。2000年と2004年にここで開きました。様子がわかっているということもあるのですが、アクセスが便利(というより、分かりやすい)のがなによりです。もっとも、成田空港から新宿、新宿から高速バスですので、それほど近くはありません。しかし、バス停がホテルの前にあるので、迷うことはありません。ここでは、準備のときにも協力いただいたのがありがたかったというのが印象に残ります。これで分かるように、実は、今回は、私のところで面倒をみたわけではなく、同僚であったH氏のところでアレンジしていただいたものです。ワークショップは明日、明後日が本番ですが、なかなかよいものになると期待しています。

このようなワークショップを(日常的にというまでもなく)折に触れて、大げさな準備なくできることは、われわれにとって大事なことではないでしょうか。国際会議のようなフォーマルな会合にはそれなりの準備と体制が必要です。参加者がオープンですので、それなりの準備が必要でしょう。しかし、日常的な共同研究を進めるためのワークショップを開くことには、相互に簡潔な形が望まれるでしょう。

われわれは、(これは、それを宣伝するというわけではなく)今、開いているパレスホテル箱根

http://www.hakone.palacehotel.co.jp/

と、湘南国際村センター

http://www.shonan-village.co.jp/

をよく利用しています。

東京から、また成田からもアクセスが分かりやすい、というのと、様子が分かっているという経験の部分もかなり大きいといえます。もちろん、それぞれのサイトでのサポートが次の機会につながっています。

箱根では3回ですが、湘南国際村ではもっとやったように思います。それにしても、候補が2つでは足りないというのが率直な印象です。同じテーマでは、2箇所では飽きてしまいます。新たな場所があればよいと思っています。

東京近辺では、思ったほど可能性は多くありません。もちろん、経費、宿泊費等々、わがままな要求ではありますが、実質的な研究交流のためのワークショップ開催の情報をいただきたいというところです。

Scienceは「理科」?「科学」?

Scienceは「理科」でしょうか?

わが国では、小学校から高等学校までは、「物理」、「化学」、「生物」、「地学」という『科目』をまとめた「理科」という『教科』があります。大学の入学試験でも、このように『教科』と『科目』が指定されています。

英語でScienceと呼ばれる学術領域は日本語ではどのように呼ぶのでしょうか。どうやら、教育の場では「理科」と呼ぶことが多いようです。また、学術の世界でも、これら、自然科学の分野では、Scienceを「理科」と呼んでも違和感がないように受け取っておられると感じます。また、少々、理解できないのですが、「数学」は「理科」の仲間だと言うことです。数学は自然科学ではないでしょうに・・・。これは、おそらく、わが国に固有の「理科系・文科系」という分類で「理科系」に含まれるからでしょう。

私の研究分野の「計算機科学 (Computer Science)」が自然科学に含まれておらず、したがって、「理科」ではないということで拗ねているというわけではありません。「計算機科学」がわが国で定着しなかったことについては、昨日の「「情報学」と書いたものの」で触れました。

Science は「科学」ではないでしょうか?

詳細は別の機会にするとして、計算機科学は、それらの各分野において、

・数学的な方法論に基づく理論:対象の定義、定理の証明など

・理学的探究の方法による抽象化:仮説の設定、予測、データの収集など

・工学的方法論に基づく設計:要求と仕様の定義、システムの実現、システムの検査

という3要素から構成され、しかも、これらを循環的に(すなわち、数学-理学-工学-数学-・・・というふうに)適用するという特徴がある、というのが固有のディシプリンだということです。これが私の理解です。

これは、「科学」ではないでしょうか。まさに Science ではないでしょうか。科学者が、伝統的な「理科」を科学だと誤解しないようにしていただきたいと思います。計算機科学が「振興分野」だという時期はもう過ぎました。自然科学だという物理学にしても、生で実験するのではなく、自然のモデルを設定し、計算によるシミュレーションで研究する方法が増えてきていると聞きます。科学する方法論は変わっていくでしょうが、「科学」にも新たな分野があることを認識すべきでしょう。

Science は「理科」ではなく「科学」というのがよいのではないでしょうか。

「情報学」と書いたものの

昨日は、わが国の「情報学」の研究者数について書きました。

ずいぶん前に、「情報学とは」という議論が交わされました。きちんと記録をとっているわけではありません。また、そのような議論にどの程度参加したのかさえ怪しいものですが、少なくともほぼ10年前の科研費の企画調査研究の分担者として参加して議論に参加したことは覚えています。また、手元には、池田克夫氏が代表者を務められた平成12年度科研費「情報学の学問体系に関する共同研究についての企画調査」報告書があって、その中で「情報学教育推進の施策と方向:理工系情報学の担当教員について」報告をしています。昨日の記事の発端になったものです。

そういえば、2004年の「学術の動向」3月号に「情報学分野の今日と明日」という記事を書いて、学術界に報告したことも思い出しました。「学術の動向」とは、「日本や世界のあらゆる分野の科学の動向、日本学術会議の状況、 内外で開催される学術講演、シンポジウムの情報を満載。 編集, 学術の動向編集委員会. 編集協力, 日本学術会議. 発行, 財団法人 日本学術協力財団.定価, 756円(税・送料込)」という広報誌です。

http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/

折に触れて、このようなことを話したり、書いたりしたことがありますが、今なお、「情報学」が学問としてのディシプリンを確立できたのかどうか、よく分かりません。極言すれば、10年前と変わっていないのではないか、と感じるのです。先日のシンポジウムで話題になったことの多くがそう感じたというのは、ひょっとしたら、私の理解が十分でないのかも知れません。10年前、研究代表者の池田氏からお誘いを受けて研究班に加わったとき、皆さん、先輩の先生方でした。科研費で企画調査研究を行うという計画はそれ以前から始まっていましたので、おそらく、10年以上前から議論していたことでしょう。

日本ソフトウェア科学会の学会誌「コンピュータソフトウェア」に、「『計算機科学』は死語?」という巻頭言を書いたのは1997年9月号(No.5) pp.437-438 でした。

http://nels.nii.ac.jp/els/110003743995.pdf?id=ART0004921720&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1268190094&cp=

時、折しも、現在の国立情報学研究所の設置につながる「計算機科学研究の推進について」という表題の日本学術会議の勧告を政府に提出したところでした。当時、この勧告案をとりまとめておられた学術会議会員土居範久氏のお手伝いをさせていただいたので、その経緯も、その後の成り行きも一通り分かっています。それは別としても、今なお、この巻頭言に書いたこととおなじ気持ちになるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、すべてがそうだというわけではありません。その後、私もいろいろと学びましたし、視野も広がったことは自認しています。しかし、依然として、「情報学」というディシプリンがよく分からないのです。

「情報学」分野が学術全体の5%だというのは、決して大きさを誇示しようとしたわけではありません。また、その名のもとにさらに拡大して「勢力」を大きくしようというつもりでもありません。むしろ、明確なディシプリンがないという「情報学」というところに新たな多様な分野(かどうか?)の芽が集まってきているのではないかとの思いで書いたものです。

大胆に言えば、「情報学」には、古典的なディシプリンというものを求めるものではないのかも知れません。私自身は、「情報」に関わる領域の中に「計算」に関わる学術分野があって、そこには他の分野にないディシプリンがあると考えています。もちろん、これが「情報学」のすべてではありません。

「情報学」の研究者数

2010月3月6日には、日本学術会議主催の「情報学シンポジウム」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/86-s-3-4.pdf

があったことに触れました。

そのときにも感じたのですが、「情報学」とはどの範囲の学問でしょうか。かなり幅広いことは多くの方々が認識しているでしょう。

以前から、「情報学とは」といった議論がありますが、ここでは、それを繰り返すつもりはありません。現在、文科省の科学研究費では、「総合・新領域系」の「総合領域分野」の「情報学分科」として『情報学』が現れます。『情報学』には、「情報学基礎、ソフトウエア、計算機システム・ネットワーク、メディア情報学・データベース、知能情報学、知覚情報処理・知能ロボティクス、感性情報学・ソフトコンピューティング、図書館情報学・人文社会情報学、認知科学、統計科学、生体生命情報学」といった11の細目があります。とりあえず、これら11の分野を現代の『情報学』とするのが一つの考え方でしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_20.pdf

このような情報学分野の研究者は学術の全分野に対してどの程度なのでしょうか。もっとも、ここでは大学に限ってのことで、企業の研究者の方々についての情報は私には分かりません。科研費の配分データも公表されていますので、これが参考になるでしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_07.pdf

ところが、ここでは、分科・細目ではなく、「分野名」という別の基準によって集計されているのです。その理由は分かりません。「情報・電気電子工学系」というのがあります。ピッタリではないにしても、近いと考えられるでしょう。この分野の採択件数は、かなりの年にわたって6%強です。このあたりが学術全体に占める「情報学」の割合とみてよいでしょうか。

日本学術会議には専門分野として30分野があります。その一つの「情報学」に所属する会員は、全会員210名に対して12名です。また、連携会員約2,000名に対して111名です。これらは、「情報学」が5〜6%であるということを表しているといってよいでしょう。私の所属する総合大学でも、教員数の比率はほぼこの程度だと思われます。

「情報学」の範囲が広いからといって、学術分野の10%が情報学ということはなさそうです。大雑把に言って、5〜6%だと考えてよいでしょう。

それでは、これらの分野の大学教員はどの程度でしょうか。これも、非常に大雑把ですが、私は約2,000〜3,000人だと思っています。少し、古いのですが、5年ほど前に、国公私立大学の約200の理工系情報学科・専攻(学科と専攻の重複あり)に所属する教員(当時は、助手・講師・助教授・教授)2,600名の専門分野を調べたことがあります。学科や専攻に所属するものの、情報学分野とはいえない分野の方々が800名ほどということで、情報学分野には1,800名ということかも知れません。

では、博士の学位取得者は年間、どの程度でしょうか。これも、古いデータですが、2000年の論文タイトル4,000件ほどから、情報学分野だと思われるものを分類しましたが、それによると、年間300〜400名が情報学分野で学位を取得していました。今でも、それほど変わっていないのではないかと思います。2,000〜3,000名の教員が40年ほどで退職して、若手が補充されるということとすると、年間50〜75名分のポストが空くということになります。学位取得者が大学にポストを求める場合にはこのような現実があるわけです。最近では、博士の学位取得後に産業界で活躍する人が増えています。

情報学分野の大雑把な量的把握ができましたが、他の伝統的な分野のこのようなデータを知りたいと思います。とくに、博士課程の学生のことが話題になるときに、入学者が減っているという現実を改善しようという議論はにぎやかですが、学位の取得者が得ることのできる大学のポストについての話はあまり聞きません。このあたりのデータがあれば議論が分かりやすくなると思います。

学術全体の5〜6%が「情報学」、新たな分野としては大きいものといえるでしょう。学術だけでなく、社会に対する貢献も期待されています。

「ハード」と「ソフト」

一時期、計算機(コンピュータ)のハードウェアとソフトウェアを(日本語独特の)省略形で、「ハード」と「ソフト」と呼んでいたことがあります。なんだか、背中がむず痒くなってきます。もとの英語では形容詞、カタカナ書き「日本語」ではこれを名詞として使っています。

ところが、最近では、一般社会でも「ハード」と「ソフト」が使われることが多いように思います。

「ハードウェア(hardware)」ということば自体が、本来は「(木製のものではない)金物」を指していたものが、計算機のハードウェアなどの物理的な装置や機械を表すように変化した、あるいは、転用されたのだし、それに対比して「ソフトウェア(software)」ということばが生まれたのですから、生き物であることばに慣れていないからといって文句をいうのはおかしいかも知れません。

しかし、「ハード」、「ソフト」を名詞として使うのはどうでしょうか。とくに、最近は、一般社会における施設や設備を「ハード」と呼び、規則や制度を「ソフト」ということが多いようです。こうした場面では、ハードウェアやソフトウェアといったことばでは呼ばないのかも知れません。そう表現しようという意図は分からないわけではありません。また、そのように書かれているところを、「ハードウェア」、「ソフトウェア」と置き換えればすっきりするかというと、そうでもない感じです。いつのまにか、定着したのでしょうか。

この間、学術的な論述の中にある「ハード」と「ソフト」を見たとき、さてどうしたものかと悩んだものです。極めつきは、「・・・などの『ソフト学問』に通じた・・・」という表現でした。ここでは、「ソフト」は本来の形容詞でしょうか?なんとなく分からなくもないのですが、日本語で精確な意味を表現できないような、あるいはそうしたくはないような場合に、カタカナ書きで「ハード」や「ソフト」を使っているのではないでしょうか。論述には適当なことばだとは思えません。

また、よく見るカタカナ語に「インフラ」があります。もちろん、「インフラストラクチャ」 (infrastructure) の短縮形(?)ですが、こちらは、infra- が接頭辞として

「下に,下部に (below)」の意 (#→supra‐).[株式会社研究社 新英和・和英中辞典]

とあります。普通に使っている「インフラ」はほとんどの場合、「インフラストラクチャ」ですが、これが長いので面倒になって短縮したのでしょうが、なぜ、「基盤」としないのでしょうか。

ここで、「日本語の乱れ」といったことを論じたのではありません。そうするには体系的な調査や断じるための根拠が必要でしょう。そうではなくて、「なんとなく雰囲気を伝える」カタカナ書きのことばが学術的な場面にも現れてきたことに違和感があることを伝えたいと思ったのです。

いかがでしょうか。

科学者の行動規範とAcademic Honesty

一昨日、東京大学の133年の歴史の中で初めてという学位授与の取消しを聞いて、「知を窃(ぬす)んで地に落とす」と書きました。科学者にとっての規範が問われることは他にもありますが、あらためてその重要性に気づかされました。

日本学術会議では、2006年10月3日に声明「科学者の行動規範について」を出しています。

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-s3.pdf

科学者として自ら律することを明確に述べたものです。

各大学、各機関にもそれぞれ規範があるでしょう。東京大学には

http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/res/res4/kihan/kihan.pdf

があります。

今回の学位授与に関わる問題は、科学者としての第一歩を踏み出そうとする、あるいは踏み出したばかりの大学院学生の行動に係るものです。もちろん、博士論文の執筆の指導における科学者としての行動も問われます。

大学院学生の行動規範というのはあるのでしょうか。昨年、今回の件がインターネット上で話題になったときに、ある方から問われました。私の知る限りにおいて、大学や研究科にはそういった文書がありませんでした。一方で、その方からは、外国の大学で大学院学生やその募集に向けて公表しているWEBページを教えていただきました。

http://www.grad.uottawa.ca/default.aspx?tabid=1378

私の研究分野である Computer Science を対象としているコロンビア大学の専攻のページも教わりました。

http://www.cs.columbia.edu/education/honesty

他大学でも使われているようですが、”Academic Honesty”ということばが新鮮で入りやすいのではないか、とのコメントもいただきました。まさに、そうだと思います。学生がレポートを作成するときの心得も書かれています。

科学者がもたなくてはならない倫理は、ややもすると観念的に捉えがちですが、先輩が若い科学を目指す者へ伝えるべき大事なことといえます。具体的な研究成果だけが科学者を育てるのではないということを認識すべきでしょう。

本末転倒?

今日は日本学術会議で情報学シンポジウムを開きました。

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/86-s-3-4.pdf

その前、午前中には情報学委員会と各分科会の合同会合をもち、さらに7つの分科会が開かれました。昨日、別の学内の会合の場でも話題になったことが、今日もまた話に出ました。「研究費と成果」の関係、目的と手段が逆転しているのではないかという懸念です。

昨日は、若い研究者と話した中で、研究費を手に入れる悩みを聞きました。大学の基盤的経費で十分に研究できるにこしたことはありませんが、そうはいかないのが現状です。大学における curiosity-driven 研究には科学研究費を得るのが基本です。分野によって、また研究費の額にもよるのですが、新規課題の申請件数に対する採択件数を見ると、平成21年度は24.9%でした。

http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/27_kdata/index.html

複数年の計画の課題については、一度、採択されると数年の研究は継続できますが、新規採択が1/4ということですから、科研費による研究費が途切れることはもちろん起こります。では、どうするのでしょうか。

研究者個人ではなく、共同で研究費を得る(研究代表者の共同研究者になる)こともその一つの対策でしょう。しかし、萌芽的な curiosity に基づく研究目的を共有することは常ではないでしょう。では、どうすればよいのでしょうか。他の研究費を得る途を考えることになります。産学連携も考えられるでしょうし、別のFunding Agency のプログラムに応募することも一般的でしょう。

問題は、そのような研究費を獲得することと、本来の研究のことです。研究費を獲得するための努力がなければ、本来の研究を進めることはできません。これが、施策による競争的資金による研究促進の目的でしょう。語弊があるかも知れませんが、「エサで釣る」わけです。このようにして獲得した研究費によって得られた公表論文や実験機器の試作品は、その研究費による成果です。

研究費がこのような使われるには問題ないでしょう。いえ、本来の競争的研究資金のあり方そのものです。しかし、ときにして、あるいは、往々にして、研究成果がないと次の研究資金が得られない、ということも起こります。科研費を初め、競争的資金は3-5年の年限があります。次の研究費のためには、実績を作らなくてはなりません。このときに、論文を何のために書くのか、公表するのかという話になります。これまでの論文がなければ、次の研究費が得られない、といった現実から、少々、無理にでも論文発表をすることになることが、「本末転倒」ではないかと思うのです。

若い研究者が(もっとも、これは年齢によるわけでもないのですが)、多くの時間を使って研究のための経費を工面しなければならない、しかも、それでも経費が得られないという現実は、自由に若い発想を大事にしようという考え方に反しています。それにも増して、それを理由に、「次期研究費のために論文を書く」という暗黙の理解がなされることに危惧を抱きます。

とくに、若い研究者に、このような「本末転倒」が生じないように研究費の「つなぎ」ができるような、セーフティネットを作ることが大事でしょう。研究スタイルは、研究生活の初期に得た経験が大きいと思います。本来の研究が先にあって、その成果を社会に還元するという研究スタイルを次代の研究者に提示することがきわめて大事だと考えます。

知を窃(ぬす)んで地に落とす

まことに残念なことです。いや、大学にいる者として、情けなく思います。それ以上に、責任を感じます。東京大学で学位授与が取り消されるという、重大なことがありました。

昨年の秋から、インターネットを通じて大きな話題になっていたことです。学位授与の取消しは剽窃、英語ではplagiarismによるものです。滅多に見ることばではないのですが、分かりやすくいえば「盗用」でしょうか。まさに、「知を窃(ぬす)む」ことが大学を「地に落とした」ということです。

大学の根幹的な役割の学位授与に瑕疵があったというわけです。社会に対する責任の重さを考えるにつけ、大学人として慚愧に堪えません。誤解を招くおそれがありますが、「こういうことがあるのか」というのが率直な印象です。学術に関わる者として、あらためて学問に対する謙虚さをもたなければいけないと思います。学位授与は大学、大学院のもっとも大事な機能です。社会に対して、学術を修めたことを証するわけですから、信頼できる限られた機関・組織にそれが認められてきたわけです。今後、いろいろな議論もあるでしょう。どうやら、新しい分野への視点をもった「論文」だったということです。学術の世界で新しい分野を拓くことはきわめて大事なことですが、そこに何があってもいいというわけではありません。

所属する研究科の近くにあり、しかも、以前に所属した研究科で起こったこの事態を深く考えることになりました。学内には他にもあるのではないか、といった議論になるでしょう。少なくともわれわれは学位授与に疑念が抱かれることはないと自信をもっています。

「剽窃」というのは程度問題ではないか、といった話も聞きますが、断じてそのようなことはありません。要は、学生の日頃の活動と成果をきちんと見れば分かることです。

こうした話とは別に、一方で学生の研究成果を「断じる」怖さも知らなくてはいけません。博士論文だけでなく、修士論文や卒業論文も同じでしょう。教育的で指導的な立場から、教員が同じテーマで考えることもあります。また、研究室の先輩が行った研究を引き継いで自身の研究にすることもあるでしょう。こうした学生の成果の中に、教員や先輩と一緒に得た成果を書いたときに、それをいきなり「剽窃」ということばで断じるというのは当たらないでしょう。若い人材に傷を負わせます。このような、過度な「剽窃」探しは「魔女狩り」になりかねません。

今回の件は、われわれにとっては本当に大きな課題を突きつけたことだといえます。今、私にはどうしてよいのか分かりません。大学が社会に責任をもち信頼を得るためにどうすべきか問われています。謙虚に考えたいと思います。

若手アカデミーとは?

今日は、大阪で開催された日本学術会議公開シンポジウム「若手アカデミーとは何か」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/90-s-1.pdf

に参加しました。この案内にあるように、ドイツ、オランダ、オーストリアではそれぞれの国で若手アカデミーが組織されて、活発に活動しているということです。また、ヨーロッパの40ヶ国のアカデミーの連合体ALLEA(All Europian Academies)でも、全欧で若手アカデミーを設立しようとしています。シンポジウムでは、ALLEA事務局長の講演がありました。さらに、2月にはベルリンで全世界的な若手アカデミーの設立準備の会合がありました。そこに出席した4名の若手研究者から詳しい報告がありました。

さて、「若手」は何歳でしょう?おおよそ、平均が35歳だということです。「アカデミー」の理念とは何でしょう?私は、わが国では日本学術会議の理念がそのままあてはまると思っています。実際、若手の方々の報告であがっていた目的はまさに学術会議の目指していることでした。

では、なぜ「若手アカデミー」なのでしょうか。わが国だけではなく、おそらく、他の国でも、アカデミーのメンバーは科学者・研究者の年輩層が占めていることの現れだと思います。大雑把に言って、25歳から40歳までの若手の科学者は、25〜70歳の科学者の1/3を占めるでしょうが、40歳以下の学術会議の会員は皆無です。

話が逸れますが、大学教員の職位は学校教育法によって決まっています。2007年4月に改定されて、職位は助手・助教授・教授から助教・准教授・教授に変わりました。この改定に伴う議論の中で、「若手研究者の自立性・自律性向上」が謳われ、「教授が白を黒と言えば、助手は何であれ『黒』と言う」だとか、「若手の研究に教授が口出しをして、若手は思ったように研究ができない」といった悪例を解消すべきである、といったことが話題になりました。正直なところ、「へぇ、今どき、そういう研究室もあるのか」と疑問に思ったものです。ないとはいえないでしょうが、どの程度でしょうか?データはあるのでしょうか?科学者はデータが基本であると言いながら、行政的な判断に与するときには、自らの経験や多勢の言動に惑わされる恐れがあります。年輩の老練の士は若手のことをおもんぱかって、よかれと思うことを断定的に言うのでしょうが、若手の方々はどう感じているのでしょうか。「助教」の若手科学者はこの職位の改定をどう思ったのでしょうか。

「老練アカデミー」でも、とくに、人材育成に関わる議論の中では若手のことを考えて、よかれと思う提案をしています。若手の方々の意見を聞いて判断しているのですが、それも老練者の考えの中でやっていることです。「聞いてやる」ということではないでしょうが、若手の方々の自律的な行動から示される意見とは違うのかも知れません。老練アカデミーの活動を批判的で建設的な目で見つつ、同じ課題に対して自律的に活動する「若手アカデミー」があれば、老練アカデミーの活動のチェック機構になるでしょう。科学には謙虚でなくてはなりません。科学者からなるアカデミーの活動でもそうでしょう。老練科学者には批判を活力に向ける智慧があるものと信じています。

最終講義を受講して

今日は最終講義のハシゴでした。南谷崇先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_1.shtml

と竹内郁雄先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_2.shtml

でした。

南谷崇先生の講義では、新たな情報社会への研究の視点の重要性についてお話しがありました。以前に「「・・・を科学する」こと」で触れたサービスイノベーション研究会でもお世話になりました。「情報社会学」という新たな学問への取り組みは、日本学術会議で取りまとめている「日本の展望」の提言「安全で安心できる持続的な情報社会に向けて」で取り上げた課題解決への一つの道筋が示されたように思いました。

先生の講義の中で、大学運営に関することは、以前より私自身が研究科長の職にあったときに感じたことでもあり、あらためて身に染みて今後の大学運営のあり方に関する示唆を与えられたと思います。

これまでにもうかがったことではありますが、現在の大学、あるいはその組織において、健全な運営のために考えなくてはならないことが教えられたと思います。とくに、組織において、研究企画を担当する人材の話は、私も同じ思いを持ったものです。当時には、南谷先生と密接にご相談したことはないのですが、同じ思いを持っておられて実践されたことを改めて認識いたしました。

最終講義は、先輩の先生のお考えや実際のご経験をお聞きする貴重な機会だと思います。これまでにも、折に触れてご意見をお聞きしたことはありますが、あらためて別の視点から、お考えをうかがうことができました。

この時期にはこうしてお話しをうかがうことで、自らの考えを確認する機会を得ることができます。

もう一つの竹内郁雄先生の講義についてはあらためて・・・。