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文科省の「研究不正に向けた取組」について(追記)

文科省の研究不正の取組については、一月ほど前に「文科省の『研究不正に向けた取組』について」として意見を述べましたが、9月26日に文科省から「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」の中間とりまとめが公表されました。そこには、「国による監視と支援」として「『研究公正局(仮称)』のような第三者監視組織の設置などは今後に向けた大きな課題である」と書かれています。以前の記事にも書きましたが、(研究不正だけではなく)学術界の不正に対処する自律的な活動を促し、不正に関して審理裁定を行う機関が必要だと考えていますが、「監視」ということには違和感があります。

学術界の自律的な解決には期待できないということで、第三者が監視するということになるのは、科学者にとって残念なことです。学術界では、社会による監視が求められる前に自らが説明責任を果たすべきだといえるでしょう。

研究成果に関する疑義が指摘されたときに、それを調査することはその分野の研究者でなくてはできません。また、その対象となる研究者の所属機関の協力なしには実情が分かるわけではありません。したがって、現状では、それぞれの研究機関や大学などで調査委員会が調査し、その結果に基づいて、その処置をとるというのが一般的です。しかし、それが適切な処置であるかどうかを学術界で判断する機会がないというのが問題だと思います。学術界での「審理裁定」の機能が必要だといえるでしょう。

Academic Integrity とResearch Integrity

これまでに、「学術『公正局』」ということでいくつかの記事を掲載しました。最近の話題が「研究不正」への対応に向いていることから、また、生命科学分野の議論が活発で、米国のORI(The Office of Research Integrity)が参照されて、「公正局」という表現が使われていたことから、その名称を借りました。しかし、わが国で実効的な組織を考えるときに、米国ORIの機能でよいのかどうか検討が必要だという指摘もあります。このなかで、研究不正だけではなく、経歴詐称や業績誇称など学術上の不正を対象とする組織を「学術『公正局』」と表しました。

米国では “Academic Integrity” ということばも使われています。「学術上の誠実さ」とでもいえばよいのでしょうか。あるいは、「学術公正性」といってもよいかも知れません。米国にInternational Center for Academic Integrity (ICAI) という組織があり、多くの大学がメンバーになっています。たんに研究だけではなく、大学の学生や教職員、大学役員などすべての構成員に対する誠実性の規定 (Code of Academic  Honesty) とその実施状況の評価の基準などの情報の提供などを行っています。

わが国では、研究面での不正防止のために研究倫理プログラムを開発して普及させるということが計画されていますが、2年半前に「科学者の行動規範とAcademic Honesty」で書いたように、学問に携わる初期に身につける「誠実性」は研究活動における不正行為への健全な意識をもつためにも重要でしょう。たとえば、指導者からの不正行為の強要といったことにどう対応するのか、自らの信念をもつ機会となることが期待されます。大学教育の中でも、たとえば、工学倫理といったかたちで職業上の倫理が扱われてきていますが、大学における学生生活のなかで身につけるべき「誠実性」もその範囲に含まれるでしょう。

研究成果としての論文の捏造、捏造(Fabrication)、改ざん(Falsification)、盗用 (Plagiarism)という、いわゆる FFP 研究不正は「研究公正性」の問題ですが、その成果を得るための研究費獲得の際には、業績誇称といった「学術公正性」の問題が出てくることがあります。また、FFP研究不正の当事者として、大学教授といった一定の職階の研究者が多いことから、その職を得た過程について問題が指摘されることもあります。経歴や業績を自ら誠実に記載するのは、研究者としての資質に関わることですが、最低限、研究者として歩むときに身につけるべき誠実さだといえるでしょう。

“Academic Integrity is fundamental to everything we do in the academy”  ということばがあります。大学や研究機関における「学術公正性」の周知を深めることを考えるべきだと考えます。

研究費に思うこと

「研究不正」にはさまざまな要因がからみあっていますが、研究費との関係もその一つでしょう。研究費の「不正使用」ということが、今でも報道されます。科学者が社会からの信頼をなくする大きな問題だといえるでしょう。論文の捏造や論文数の水増しなどは研究成果に関する不正ですが、研究実施に係る経費はどうなっているのでしょうか。

大学で研究に携わったことを振り返ってみると、研究成果は公表した論文等を通じて、社会の共有知財として活かされることに喜びを感じるものです。その一方で、その研究を実施するにあたっての公的資金の実態を伝えることには、それほど関心をもっていなかったと反省しています。一般的には、研究費はあまり公表しないようです。研究費の原資は分野によってさまざまでしょうが、curiosity-drivenの基礎的な研究では、代表的には科学研究費でしょう。科研費については、「科研費データベース」を通じて、だれでも、特定の研究者の研究経費と成果を知ることができます。私が研究代表者として実施した科研費による研究は17件であることが分かります。

2年半ほど前、2011年3月に大学を退職するときに、研究代表者として研究室での研究に充てた経費の状況を振り返ってみました。「研究室」の大きさは、いわゆる旧小講座程度で、少しの変動はありましたが、おおむね、教授、准教授、助教が各1名で、大学院学生と一緒に研究をするというものでした。そのときに使ったのはスライドのページ「研究費」でした。研究室の教員が共同研究者として実施した経費分を示したものです。もちろん、若手の教員も科研費を獲得していましたので、これだけで研究室の研究費をまかなったというわけではありません。また、大学院の学生には、研究課題を自ら見つけることを勧めていましたので、科研費の課題と異なることもありました。そのときには、別途、研究費を充てることもありました。

科研費に限らず、公的資金への応募に際しては、すべての書類を自分で作りました。それなりの苦労はありましたが、それでも、研究マネージメントに時間がとられる、といった感じはしませんでした。つつましい研究だったといえるでしょうか。

上に示した研究費の状況の中には、文科省の研究プロジェクトe-Societyの経費にも触れていますが、このプロジェクトについては別の機会に書きたいと思います。2006年には、エフォートを考慮して、科研費を申請しなかったと記憶しています。それ以外には、研究費としては、企業等からいただいた寄付金もいくらかありました。大学の公費(運営費交付金)や科研費で海外出張が認められなかった時期には、非常にありがたい資金でした。特定の研究課題の支援経費ではありませんでした。また、当然のこととして、寄付金には利益相反への配慮が必要ですので、管理的職務についてからはその可能性を排除するために、一切の寄付金を受けませんでした。

研究に係る倫理のあり方を考えるにつけ、他者の批判をするだけではなく、自らの行動を振り返ってみることも大事ではないかと思います。公的にその場にある人たちは、積極的に成果と研究費の関係も公表すべきでしょう。

教育プログラムの競争的資金

大学人が会うと、よく「現在のわが国の大学が疲弊している」という切実な話になります。とくに、教育にあてる経費が厳しくなっている実感があるということでしょう。

文科省では、数年前から「大学教育改革支援事業」として、10を超える支援プログラムを立ち上げ、公募して選考し、実施してきています。よく知られた「21世紀COEプログラム」やその後に実施されている「グローバルCOEプログラム」も教育に関わりがありますが、これらは教育研究の「拠点形成」を目的にしています。平成21年度(2009年度)の状況は

http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/index.htm

にありますが、「平成20年度以前のプログラム」というのが多いのが目につきます。

少し古いのですが、平成19年度の大学教育改革支援事業(COEプログラム等を除く)の支援経費は約200億円でした。うち、国立大学に62%の121億円が配分されていたということです。同じ年度の運営費交付金の総額が約1兆1000億円ですから、1.1%相当額ということになります。運営費交付金は、いわば、大学の基盤経費で、人件費や施設維持等、もろもろの経常的な経費を含んでいますので、大学の規模によるところが大きいといえます。この経費が年々、減額されていくことに大きな問題があることはいろいろと指摘されているところです。一方で、それを補完するかのように教育プログラムに競争的資金が投入された側面があります。教育面ではとくに継続性のあるプログラムの実施が必要であるにもかかわらず、2年間の計画を求めるというものさえある状況です。また、公募されるプログラムの内容に関して、すでに一部でも実施しているようなところには、「もう支援は必要ないのではないか」ということにもなりかねません。競争的な環境では、教育の場でも「新規性」が問われるのでしょうか。

さて、このような競争の場に置かれた教育プログラムですが、法人化以前からほぼ固定的である大学間比率の運営費交付金と、競争的教育経費の獲得額比率を対照して見ると、興味深いところがあります。プログラムに応募して獲得した経費の偏在がみられるということです。額としては後者は1.1%と少ないのですが、運営費が減少してゆく中で教育支援の経費という点では得難いものです。一部の大学に偏っているというのは、もちろん、大学の積極的な取り組みの結果であるということもできるでしょうが、一方で、教育という短期的成果の見えない事業に対して、基盤的経費から競争的資金へと移ることによる問題もあるのではないでしょうか。

・教育経費を競争的な場に置いたことによる地方大学の疲弊
・短期的研究課題、「役に立つ」研究指向で基礎科学分野が崩壊
といったことには、その状況の検証とともに、大学人が真摯に検討すべきことであるといえましょう。

「競争原理」が施策として推進されてきた中で、教育研究の現場の声がかき消されて、大学が崩壊しつつあることへの懸念を感じているということです。情報分野では、数年前から産業界(の一部)から大学教育への疑問が出され、「実践的教育を重視せよ」という声が高まり、これを教育プログラムとして競争的資金の枠に設定し、ところによっては産業界からそのための教員を送り込むということも出てきています。

どこに焦点を当ててよいのか難しいところがありますが、学術界から学術行政に対する「科学的な検証」を行う必要もありそうです。

大学教員の流動性

この時期、大学では恒例の退職教授惜別会が開かれます。今年は、われわれの研究科でお二人の先生が定年で退職されます。

大雑把に言って、研究科には30名の教授と70名の准教授・講師・助教がいます。研究科ができてから満9年、この間、これまでに8名の先生方が定年退職していますので、今年で10名ということになります。これも大雑把ですが、平均して毎年1名の教授が退職するといってよいでしょう。30名の教授で全100名の教員からなる組織で、この数はどうなのでしょうか。

これだけの情報からでは、「1年で1%しか入れ替わらない膠着した組織」といったイメージが浮かぶかも知れません。しかし、実態はというと、外部からの教授の就任や、若手の教員の入れ替わりがかなりあります。2004年度から3年間に(内部の昇任を除いて)新規に採用された教員は約30名でした。100名の組織で年平均10名が新規に採用されたのですから、毎年10%の入れ替わりがあったということになります。任期制のポストはありませんでした。

組織の性格によって違うでしょうが、年間に10%の教員が入れ替わっているというのは、継続的に教育を行う研究科としては適正なものだと思います。他の組織ではどうなのでしょうか?任期制によって流動性が高くなるということがあるのかも知れませんが、そのような制度がなくても流動性は保たれているといえるでしょう。

一般に、「膠着した組織」という大学像が多く報じられますので、それが社会に印象づけられてしまいます。それを解決するために、「流動性を高めるために任期制を導入する」という「名案」を生み出したのでしょう。しかし、これでは、組織の自律性を無視して「制度」に頼ることになってしまいかねません。

2010/2/20に「大学の国際化の目指すものは?」を書いたときとおなじ思いがあります。大学人は特別なプログラムや制度がなくてもできることをやるというのが筋ではないでしょうか。

大学における「人材育成」

昨今、「人材育成」がよく話題になります。それだけ、難しいことだということでしょう。

大学でも、あるいは学界でも「人材育成」が議論されることは多いのですが、産業界や企業におけるものとは少し違うように思えます。大学や学問の世界で、「人材を育成する」ことはどういうことなのかと考えます。大学では、よく、「人材育成」という文脈で「教育」が議論されます。「大学教員は研究に力を注ぐあまり、教育がおろそかになっているのが問題だ」というのは、人材育成という課題にとって問題だといっているのでしょう。

「人材を育成する」というのは、どうも、上から目線といった感じがして、大学という場に適当なのかどうか、疑問に感じます。大学生は学問の途に入ってきた大人です。教員と学生が議論を戦わせて互いに自己研鑽を積むというのが本来の大学の姿だったわけです。いつの間にか、「教員が学生という芽を育てる」というのが当たり前になったようです。大学の大衆化ということでしょうか。

長年、大学にいると、ときに、「いい人材を育てることが使命だ」と言ったり、「多くの人材を育てましたね」と言われたりすることがあります。しかし、私の実感は、「いい人材が育つようにする」ことが使命であって、「多くの人材が育った」ことを喜ぶといったところです。

技能を身につける、スキルを磨く、といったところでは「育てる」教えが必要でしょう。英語力を高めたり、今では情報リテラシーを修得するといったことはこれにあたるでしょう。しかし、それらは英語学や情報科学といった学問体系を学ぶこととは違います。学問を学ぶことは、自らの見識でものごとを見る力を身につけることですから、一方的に教え込むようなものではないと思います。教員は学生の手助けをするに過ぎません。教員もそれによって学ぶわけです。

大学教育の中にも、もちろんそのようなコースも必要ですが、すべてをそのような向きに進めようとすることは疑問です。産業界からの要請もあって、大学院課程で実践的なコースを試行するプログラムがいくつか行われています。そこでは、カリキュラムに基づいて教材が開発され、それにしたがった特定の講義と実習だけで修了できるようにしている大学もあります。形にはめてしまえば人材が育つのかどうか?一定数の修了生は出るでしょうが、体系的な知識と技術とともに、見識を身につけた人材が育つのかどうか?「教え込む」ことを過信しないのがよいと思います。

「情報学」の研究者数

2010月3月6日には、日本学術会議主催の「情報学シンポジウム」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/86-s-3-4.pdf

があったことに触れました。

そのときにも感じたのですが、「情報学」とはどの範囲の学問でしょうか。かなり幅広いことは多くの方々が認識しているでしょう。

以前から、「情報学とは」といった議論がありますが、ここでは、それを繰り返すつもりはありません。現在、文科省の科学研究費では、「総合・新領域系」の「総合領域分野」の「情報学分科」として『情報学』が現れます。『情報学』には、「情報学基礎、ソフトウエア、計算機システム・ネットワーク、メディア情報学・データベース、知能情報学、知覚情報処理・知能ロボティクス、感性情報学・ソフトコンピューティング、図書館情報学・人文社会情報学、認知科学、統計科学、生体生命情報学」といった11の細目があります。とりあえず、これら11の分野を現代の『情報学』とするのが一つの考え方でしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_20.pdf

このような情報学分野の研究者は学術の全分野に対してどの程度なのでしょうか。もっとも、ここでは大学に限ってのことで、企業の研究者の方々についての情報は私には分かりません。科研費の配分データも公表されていますので、これが参考になるでしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_07.pdf

ところが、ここでは、分科・細目ではなく、「分野名」という別の基準によって集計されているのです。その理由は分かりません。「情報・電気電子工学系」というのがあります。ピッタリではないにしても、近いと考えられるでしょう。この分野の採択件数は、かなりの年にわたって6%強です。このあたりが学術全体に占める「情報学」の割合とみてよいでしょうか。

日本学術会議には専門分野として30分野があります。その一つの「情報学」に所属する会員は、全会員210名に対して12名です。また、連携会員約2,000名に対して111名です。これらは、「情報学」が5〜6%であるということを表しているといってよいでしょう。私の所属する総合大学でも、教員数の比率はほぼこの程度だと思われます。

「情報学」の範囲が広いからといって、学術分野の10%が情報学ということはなさそうです。大雑把に言って、5〜6%だと考えてよいでしょう。

それでは、これらの分野の大学教員はどの程度でしょうか。これも、非常に大雑把ですが、私は約2,000〜3,000人だと思っています。少し、古いのですが、5年ほど前に、国公私立大学の約200の理工系情報学科・専攻(学科と専攻の重複あり)に所属する教員(当時は、助手・講師・助教授・教授)2,600名の専門分野を調べたことがあります。学科や専攻に所属するものの、情報学分野とはいえない分野の方々が800名ほどということで、情報学分野には1,800名ということかも知れません。

では、博士の学位取得者は年間、どの程度でしょうか。これも、古いデータですが、2000年の論文タイトル4,000件ほどから、情報学分野だと思われるものを分類しましたが、それによると、年間300〜400名が情報学分野で学位を取得していました。今でも、それほど変わっていないのではないかと思います。2,000〜3,000名の教員が40年ほどで退職して、若手が補充されるということとすると、年間50〜75名分のポストが空くということになります。学位取得者が大学にポストを求める場合にはこのような現実があるわけです。最近では、博士の学位取得後に産業界で活躍する人が増えています。

情報学分野の大雑把な量的把握ができましたが、他の伝統的な分野のこのようなデータを知りたいと思います。とくに、博士課程の学生のことが話題になるときに、入学者が減っているという現実を改善しようという議論はにぎやかですが、学位の取得者が得ることのできる大学のポストについての話はあまり聞きません。このあたりのデータがあれば議論が分かりやすくなると思います。

学術全体の5〜6%が「情報学」、新たな分野としては大きいものといえるでしょう。学術だけでなく、社会に対する貢献も期待されています。

科学者の行動規範とAcademic Honesty

一昨日、東京大学の133年の歴史の中で初めてという学位授与の取消しを聞いて、「知を窃(ぬす)んで地に落とす」と書きました。科学者にとっての規範が問われることは他にもありますが、あらためてその重要性に気づかされました。

日本学術会議では、2006年10月3日に声明「科学者の行動規範について」を出しています。

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-s3.pdf

科学者として自ら律することを明確に述べたものです。

各大学、各機関にもそれぞれ規範があるでしょう。東京大学には

http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/res/res4/kihan/kihan.pdf

があります。

今回の学位授与に関わる問題は、科学者としての第一歩を踏み出そうとする、あるいは踏み出したばかりの大学院学生の行動に係るものです。もちろん、博士論文の執筆の指導における科学者としての行動も問われます。

大学院学生の行動規範というのはあるのでしょうか。昨年、今回の件がインターネット上で話題になったときに、ある方から問われました。私の知る限りにおいて、大学や研究科にはそういった文書がありませんでした。一方で、その方からは、外国の大学で大学院学生やその募集に向けて公表しているWEBページを教えていただきました。

http://www.grad.uottawa.ca/default.aspx?tabid=1378

私の研究分野である Computer Science を対象としているコロンビア大学の専攻のページも教わりました。

http://www.cs.columbia.edu/education/honesty

他大学でも使われているようですが、”Academic Honesty”ということばが新鮮で入りやすいのではないか、とのコメントもいただきました。まさに、そうだと思います。学生がレポートを作成するときの心得も書かれています。

科学者がもたなくてはならない倫理は、ややもすると観念的に捉えがちですが、先輩が若い科学を目指す者へ伝えるべき大事なことといえます。具体的な研究成果だけが科学者を育てるのではないということを認識すべきでしょう。

知を窃(ぬす)んで地に落とす

まことに残念なことです。いや、大学にいる者として、情けなく思います。それ以上に、責任を感じます。東京大学で学位授与が取り消されるという、重大なことがありました。

昨年の秋から、インターネットを通じて大きな話題になっていたことです。学位授与の取消しは剽窃、英語ではplagiarismによるものです。滅多に見ることばではないのですが、分かりやすくいえば「盗用」でしょうか。まさに、「知を窃(ぬす)む」ことが大学を「地に落とした」ということです。

大学の根幹的な役割の学位授与に瑕疵があったというわけです。社会に対する責任の重さを考えるにつけ、大学人として慚愧に堪えません。誤解を招くおそれがありますが、「こういうことがあるのか」というのが率直な印象です。学術に関わる者として、あらためて学問に対する謙虚さをもたなければいけないと思います。学位授与は大学、大学院のもっとも大事な機能です。社会に対して、学術を修めたことを証するわけですから、信頼できる限られた機関・組織にそれが認められてきたわけです。今後、いろいろな議論もあるでしょう。どうやら、新しい分野への視点をもった「論文」だったということです。学術の世界で新しい分野を拓くことはきわめて大事なことですが、そこに何があってもいいというわけではありません。

所属する研究科の近くにあり、しかも、以前に所属した研究科で起こったこの事態を深く考えることになりました。学内には他にもあるのではないか、といった議論になるでしょう。少なくともわれわれは学位授与に疑念が抱かれることはないと自信をもっています。

「剽窃」というのは程度問題ではないか、といった話も聞きますが、断じてそのようなことはありません。要は、学生の日頃の活動と成果をきちんと見れば分かることです。

こうした話とは別に、一方で学生の研究成果を「断じる」怖さも知らなくてはいけません。博士論文だけでなく、修士論文や卒業論文も同じでしょう。教育的で指導的な立場から、教員が同じテーマで考えることもあります。また、研究室の先輩が行った研究を引き継いで自身の研究にすることもあるでしょう。こうした学生の成果の中に、教員や先輩と一緒に得た成果を書いたときに、それをいきなり「剽窃」ということばで断じるというのは当たらないでしょう。若い人材に傷を負わせます。このような、過度な「剽窃」探しは「魔女狩り」になりかねません。

今回の件は、われわれにとっては本当に大きな課題を突きつけたことだといえます。今、私にはどうしてよいのか分かりません。大学が社会に責任をもち信頼を得るためにどうすべきか問われています。謙虚に考えたいと思います。

最終講義を受講して

今日は最終講義のハシゴでした。南谷崇先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_1.shtml

と竹内郁雄先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_2.shtml

でした。

南谷崇先生の講義では、新たな情報社会への研究の視点の重要性についてお話しがありました。以前に「「・・・を科学する」こと」で触れたサービスイノベーション研究会でもお世話になりました。「情報社会学」という新たな学問への取り組みは、日本学術会議で取りまとめている「日本の展望」の提言「安全で安心できる持続的な情報社会に向けて」で取り上げた課題解決への一つの道筋が示されたように思いました。

先生の講義の中で、大学運営に関することは、以前より私自身が研究科長の職にあったときに感じたことでもあり、あらためて身に染みて今後の大学運営のあり方に関する示唆を与えられたと思います。

これまでにもうかがったことではありますが、現在の大学、あるいはその組織において、健全な運営のために考えなくてはならないことが教えられたと思います。とくに、組織において、研究企画を担当する人材の話は、私も同じ思いを持ったものです。当時には、南谷先生と密接にご相談したことはないのですが、同じ思いを持っておられて実践されたことを改めて認識いたしました。

最終講義は、先輩の先生のお考えや実際のご経験をお聞きする貴重な機会だと思います。これまでにも、折に触れてご意見をお聞きしたことはありますが、あらためて別の視点から、お考えをうかがうことができました。

この時期にはこうしてお話しをうかがうことで、自らの考えを確認する機会を得ることができます。

もう一つの竹内郁雄先生の講義についてはあらためて・・・。