「高山仰止 景行行止」への道

1年半年ぶりの再開です。

「高山仰止 景行行止」は、「高山は仰ぎ、景行は行く」ということだそうです。

2年前、大学を退職するときに、後輩の同僚から贈られたことばで、詩経にあることばだそうです。「景仰」の語源で、徳の高い人がいれば、誰もが仰ぎ見て敬うことを意味することばになったということです。それを目指したいと思い、ずっと大事にしています。

これまで、「実践躬行を目指して」をキャッチフレーズにしていました。これも自らに課しつつも「高山仰止 景行行止」への道を求めたいと思います。

日本学術会議中部地区会議学術講演会

2011年11月11日の日本学術会議中部地区会議学術講演会会    http://www.shizuoka.ac.jp/public/event/detail.html?CN=891&PG01=us05

に参加しました。2つの講演、ほんとうに楽しみました。活発な地区会議の運営についてもお話しを聞いて、あらためて科学者コミュニティの地域的な広がりを認識しました。講演会で以下のようなご挨拶をさせていただきました。

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中部地区会議挨拶

日本学術会議 副会長 武市正人

2011/11/11

日本学術会議副会長の武市正人でございます。

日本学術会議はわが国の84万人の科学者を代表する機関として、学術の振興に努めています。中部地区会議主催の学術講演会にあたり、ご挨拶かたがた最近の学術と社会の関係について考えていることを申し上げるとともに、日本学術会議のご報告をさせていただきたいと存じます。

最近、考えることは、やはり、3月11日以降の科学や技術のあり方です。日本学術会議は60年少し前の1949年1月に設立されました。大きな意志決定があったのは、初期に、原子力論争から生み出された研究開発の「民主・自主・公開」の三原則だったと歴史が教えてくれます。研究活動全般に通用する原則といえるでしょう。学術会議は、制度的には変革を経ましたが、先輩の方々のさまざまな活動を礎として、わが国の学術のあり方を定着させてきたといえます。新生学術会議においても大きな意志決定が必要とされていると感じています。もちろん、Science for Societyとして社会への発信も大事ですが、発信すべき「声」のあり方も考える必要があるでしょう。その「声」は学術全般に対する見方から出るものだと感じています。学術を謙虚に見たいと思います。その上で、科学者集団として、外部の勢力から独立して学説間の均衡を保つunique voiceをもつことが大事だと考えています。

今年の10月に今後3年間の第22期が発足して一月余り経ちました。大西隆会長の下、東日本大震災復興支援委員会を設置し、その下に3つの分科会「災害に強いまちづくり分科会」、「産業振興・就業支援分科会」、「放射能汚染対策分科会」を立ち上げて活動を始めようとしています。このような活動を通じて科学者の新たな「声」として社会に発信できるように努めたいと思います。

ここで、科学者コミュニティ担当の副会長として、いくつかの視点から、科学者コミュニティについて、お話しさせていただきたいと思います。

日本学術会議の第21期(2008年10月からの3年間)には、総力でとりまとめた「日本の展望」で科学の立場から今後を展望し、同時に、「科学・技術」を定義しました。いろいろと話題になったこともありますが、「科学技術」がScience-based Technologyに解されるので、それをScience and Technologyにすべきだという含みでした。しかし、これは現在のところ、法的に認められるに至っておりません。これからは、むしろ、これを「学術」として捉えるのがよいと考えています。もちろんのこと、「学術」は人文・社会科学分野を含めた「科学・技術」です。日本学術会議は、狭義の科学だけでなく、このような意味の「学術」を包含するアカデミーです。こうしたアカデミーは国際的には少ないのですが、最近はそのようなアカデミーの必要性も指摘されてきています。われわれはその先頭に立って、「学術」による国際社会への貢献を目指して行くべきだと思います。日本学術会議では、こうした、科学者の分野の広がりを認識して、学術の発展に尽くすべきだといえるでしょう。

もう一つは、若手科学者、すなわち学術に関わりをもってから浅い年数の科学者の活動に関わることです。第21期には、「若手アカデミー」の構想を検討しました。第22期には、学術会議の中に若手アカデミー委員会を設置して、若手科学者が自立的に活動する枠組みを作り、第23期には「若手アカデミー」を設置することとしています。先週、11月4日には若手アカデミー委員会を開いて、活動を開始しました。なお、若手科学者とは、大雑把にいって、45歳未満、あるいは学位取得後10年未満といった層です。日本学術会議では、こうした若手科学者の意見を反映させて、アカデミー活動を活性化すべきだと考えています。これが、年齢層の広がりという科学者コミュニティのあり方への対応です。第22期の会員のうちで最若年の方は50歳です。これに対して、連携会員のうちで、若手アカデミーに属すると考えられる方々は10名余りいらっしゃいます。第23期には、60名程度の連携会員からなる若手アカデミーの組織を構成できるように考えています。

科学者コミュニティの広がりの第三の視点は地域性だといえます。わが国では、科学者によらず、さまざまな活動が東京あるいは関東に集中する傾向にありますが、日本学術会議ではこれまでにも地域的に広がりをもつ科学者の連携を推進してきました。中部地区8県に在籍の第22期の会員は16名で、前期よりも1名増、連携会員は148名で前期より6名増となっています。中部地区の活動状況をお聞きして、いっそうの連携を推進すべきであると考えています。

最後になりますが、社会においても課題となっている男女共同参画の視点から日本学術会議の現状を見たいと思います。科学者コミュニティでは、女性科学者が少ないということもあって、男女共同参画は継続してポジティブアクションの対象となっています。日本学術会議においては、会員210名のうちで女性会員は23.3%(49名)です。女性の連携会員は1904名のうちの16.5%(315名)となっています。いずれも、3年前よりも数%の増加で、着実に男女共同参画によるアカデミー活動を進めてきています。

以上、わが国の科学者を代表する日本学術会議における科学者コミュニティへの対応をご報告させていただきました。このような科学者コミュニティの世代や地域の広がりを認識することは、科学者だけではなく、産業界を含めた社会一般の活動にも通じることだといえましょう。科学者コミュニティの広がりが社会にもりかいいただけるように努めたいと考えています。

本日の学術講演会を企画された中部地区会議および科学者懇談会の方々のご尽力に感謝いたしますとともに、ご講演をお聞きする貴重な機会をみなさまと楽しませていただきたいと存じます。

日本学術会議副会長として

 日本学術会議では第22期(2011年10月〜2014年9月)の会長として10月3日の総会で大西隆氏を選出しました。また、10月4日には大西会長から私と小林良彰、春日文子両氏が副会長に指名され、総会で承認されました。以下に副会長就任の挨拶文を掲載いたします。社会における学術の役割に目を向けて、会員の方々をはじめとしてわが国84万人の科学者の連携のもとで努力したいと考えています。

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 このたび、組織運営及び科学者間の連携担当の副会長に就任いたしました。

 現在、社会は科学や技術のあり方に大きな期待をもちつつも、その役割に満足しているとはいえません。日本学術会議は60年余の歴史の中で、制度的な変革を経ましたが、さまざまな活動を礎としてわが国の学術のあり方を定着させ、科学者の大きな意志決定を主導してきました。今日、さらに科学者の大きな意志が必要とされていると感じます。科学者からの社会への発信はもちろんのこと、そこで発信すべき「声」のあり方が大事だといえます。学術全般に関わる科学者のさまざまな見方から出る声を、外部の勢力から独立して意見の相違をも含んだ合意した声として発するよう努めるべきでしょう。このような、科学者の連携による声を社会に発信することが、日本学術会議が代表する科学者の大きな意志の一つだと考えています。

第21期に公表した「日本の展望」では、「科学・技術」を定義しました。これは「学術」といえばよいでしょう。もちろんのこと、学術は、人文・社会科学分野を含めた科学・技術です。狭義の科学だけでなく、学術を担うアカデミーが国際的にも注目されてきていますが、われわれはその先頭に立って、学術による国際社会への貢献を目指して行くべきだと考えます。さらに、こうした学術分野の広がりとともに、科学者の世代の広がりもあります。若い科学者が次世代の学術の担い手として活動できるよう、第21期に構想した「若手アカデミー」の実現に向けて取り組むことも科学者間の連携にとって大事だと考えています。

日本学術会議が果たすべき責任を認識し、会員・連携会員のみなさまのご協力を得て、学術の発展のために力を尽くしたいと思います。

久しぶりの投稿

まったく、久しぶりです。

1年以上前に書いて以来です。昨年からいろいろなことがありましたし、なによりも、東関東大震災と福島第一原発事故は私の考え方や気持ちに大きな変化を与えたようです。

これから、折に触れて、また、書いてみたいと思います。

教育プログラムの競争的資金

大学人が会うと、よく「現在のわが国の大学が疲弊している」という切実な話になります。とくに、教育にあてる経費が厳しくなっている実感があるということでしょう。

文科省では、数年前から「大学教育改革支援事業」として、10を超える支援プログラムを立ち上げ、公募して選考し、実施してきています。よく知られた「21世紀COEプログラム」やその後に実施されている「グローバルCOEプログラム」も教育に関わりがありますが、これらは教育研究の「拠点形成」を目的にしています。平成21年度(2009年度)の状況は

http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/index.htm

にありますが、「平成20年度以前のプログラム」というのが多いのが目につきます。

少し古いのですが、平成19年度の大学教育改革支援事業(COEプログラム等を除く)の支援経費は約200億円でした。うち、国立大学に62%の121億円が配分されていたということです。同じ年度の運営費交付金の総額が約1兆1000億円ですから、1.1%相当額ということになります。運営費交付金は、いわば、大学の基盤経費で、人件費や施設維持等、もろもろの経常的な経費を含んでいますので、大学の規模によるところが大きいといえます。この経費が年々、減額されていくことに大きな問題があることはいろいろと指摘されているところです。一方で、それを補完するかのように教育プログラムに競争的資金が投入された側面があります。教育面ではとくに継続性のあるプログラムの実施が必要であるにもかかわらず、2年間の計画を求めるというものさえある状況です。また、公募されるプログラムの内容に関して、すでに一部でも実施しているようなところには、「もう支援は必要ないのではないか」ということにもなりかねません。競争的な環境では、教育の場でも「新規性」が問われるのでしょうか。

さて、このような競争の場に置かれた教育プログラムですが、法人化以前からほぼ固定的である大学間比率の運営費交付金と、競争的教育経費の獲得額比率を対照して見ると、興味深いところがあります。プログラムに応募して獲得した経費の偏在がみられるということです。額としては後者は1.1%と少ないのですが、運営費が減少してゆく中で教育支援の経費という点では得難いものです。一部の大学に偏っているというのは、もちろん、大学の積極的な取り組みの結果であるということもできるでしょうが、一方で、教育という短期的成果の見えない事業に対して、基盤的経費から競争的資金へと移ることによる問題もあるのではないでしょうか。

・教育経費を競争的な場に置いたことによる地方大学の疲弊
・短期的研究課題、「役に立つ」研究指向で基礎科学分野が崩壊
といったことには、その状況の検証とともに、大学人が真摯に検討すべきことであるといえましょう。

「競争原理」が施策として推進されてきた中で、教育研究の現場の声がかき消されて、大学が崩壊しつつあることへの懸念を感じているということです。情報分野では、数年前から産業界(の一部)から大学教育への疑問が出され、「実践的教育を重視せよ」という声が高まり、これを教育プログラムとして競争的資金の枠に設定し、ところによっては産業界からそのための教員を送り込むということも出てきています。

どこに焦点を当ててよいのか難しいところがありますが、学術界から学術行政に対する「科学的な検証」を行う必要もありそうです。

「人材」と「人財」

しばらく前から、「人財」ということばを目にすることが多くなりました。Googleで検索すると、かなりの件数があります。もちろん、われわれが長い間、使ってきたのは「人材」です。

「人財」ということばを主張する方々は、おおむね、「人材は人を材料として扱っている」が「人を財産として扱うべきだ」という考えによるもののようです。もちろん、ニュアンスの違いはあるかも知れません。

最近、政府の「科学技術基本政策策定の基本方針(素案)」が示されました。そのなかに、「人財」が現れているのです。「Ⅳ. 我が国の基礎体力の抜本的強化」の中には、「4.科学・技術を担う人財の強化」とあります。それ以外の場所にも、随所に「人財」が現れています。どうしてこのような使い方が一般的になったのでしょうか。

「材」は材料、「財」は財宝ということで、「人を価値のある」ものと捉えるために「人財」を使うべきだとの主張がそれほどまでに受け入れられているのでしょうか。公的で影響力の大きい文書の中で、定着していない(と思われる)語呂合わせによる表記を安易に用いるというのもどういうことでしょうか。もっとも、私自身、国語学を専門とする者ではないので、学術の世界からどのような判断がなされるのか分かりません。また、ことばが時とともに変わってゆくことも知らないわけではありませんので、今がその時期だといわれても驚きませんが、それでも変だと思います。

「材」は「人材」だけに現れるのではありません。「材料」以外に、「才能」としての用法が定着していることを認識すべきではないでしょうか。また、「人財」ということばは「人」と「財」という感じがしなくもありません。さらには、「人」に関して、積極的に金銭的な価値を重視した感じを与えるのも望ましくないでしょう。

このような(語呂合わせのような)ことばを公的な文書に見ると、背中がむず痒くなってきます。参考のために、辞典から「人材」の項を引用しました。ちゃんと、「人の能力」ということが示されているではありませんか。「人財」という用法は見つかりません。

(参考)[広辞苑 第四版]
ざい【材】
#建築などに用いる木。また、原料となるもの。「木―」「―料」「―質」
#用いて役に立つべきもの。「教―」「題―」
#生れつき有する能力。また、それを有する人。「人―」「適―」「国家有用の―」
ざい【財】
(呉音。漢音はサイ)
#価値のあるもの。とみ。たから。所有物。「―を築く」「―産」「―宝」「資―」
「家―」「―布(さいふ)」
#〔経〕人間の物質的・精神的生活に何らかの効用を持っているもの。それを手にい
れるために何らの対価をも必要としないものを自由財(空気、川の水の類)、必要とす
るものを経済財という。
→#―を成す
——–

いかがでしょうか。

研究用ソフトウェア環境の整備

しばらくBlogを休みましたが、その間に、Mac OS Snow Leopard上に関数プログラミング言語Haskellの環境の整備をしました。

Haskellは1998年版が基準になっているということで分かるように、かなり歴史がある言語になりました。コンパイラはGlasgow版のGHCが一般的です。最新版のGHC6.12.1をインストールしましたが、その道筋は単純ではありませんでした。

以前に書いたPOPP(Parallelism-Oblivious Parallel Programming)の実験のために、GHC6.12.1をインストールしようと考えたのです。一方で、並列実行のプロファイルをとるツールとしてThreadScopeが開発されているのですが、これは、Gtk2hsというGUIライブラリを使っていて、GHC6.10.3でコンパイルする必要があるというので、バージョンの違うGHCを使い分けるという複雑なことになっていたのです。

詳細は省きますが、ともかく、2日がかりでこのあたりの事情はよく分かりました。これから、POPPの実験を始めようと考えています。今年度の卒業論文でT君が試みたものの、GHC6.10.4のランタイムシステムの並列実行の挙動がよく分からなかったところを追試してみたいと思います。

研究のための環境を整えることも研究の一環です。ソフトウェアの環境の整備は他に比べて楽だと思うのですが、最近は、なかなか複雑になっていて、手がかかります。終わってしまえば、そういうものかと分かるのですが、その過程ではいったいどうなるのか、やめた方がよいのではないかと思いながらも時間をかけて、環境整備を行ったことはよい経験でした。こういう作業も久しぶりでしたが、現状がよく分かりました。”An ounce of practice is worth a pound of theory” といえるでしょう。

Blogの自己分析

Blogを始めて、ほぼ一月。明確な対象も決めないままに、いろいろなことをいろいろな形で書いてきました。自分自身のメモのようなものもあります。

最近、カテゴリーを増やして、Diaryだけでなく、「研究トピックス」、「大学関係」、「学術一般」、「情報社会」、「その他」というふうに分けてみました。これまでの全32件について、(重複がありますが)カテゴリーを見ると、この5つのカテゴリーにほぼ、均等に書いているようです。

カテゴリー分けがしづらいのですが、「論調」といったことで、「情報提供」、「意見表明」、「意見伺い」のように分類してみました。これも重複があるのですが、「研究トピックス」の5件はもっぱら「情報提供」で、研究の話題を分かりやすく紹介するつもりであったことが分かります。研究で主張するのは、論文になりますから、当然といえば当然でしょう。

「大学関係」では、「意見表明」をしつつ「意見伺い」というものが多いのですが、明確に意見を書いたものが6件ほどありました。

「学術一般」では、「情報提供」2件、「意見表明」4件、「意見伺い」2件でした。

「情報社会」というカテゴリーには、さまざまなものを入れましたが、情報技術やツールに関するものも含んでいます。「情報提供」2件、「意見表明」1件、「意見伺い」2件。

「その他」には、用語や文体のような話題から、この記事のようなものまでさまざまですが、7件ほどがありました。

「意見表明」については、うっかりすると「愚痴」にならないとも限りません。ある方から、そのようなご注意もいただきました。本人はそのつもりでなくても、どのような意図をもってBlogで発信するのかということを明確にしないと、誤解を招く恐れがあるということだと思います。意見を表明するにしても、それを主張するほど強いものではないと思っていますが、それでもなお、「なぜ、他の手段ではなくBlogで発信するのか」と問われると、今は、明確な目的を答えられません。もちろん、他の機会に同じような意見を述べているのですが、その上で、Blogで発信するのは、かえって、「愚痴っている」ととられかねないということです。こういったことには気がつきませんでした。

このBlogを始めたきっかけはいろいろあるのですが、まずは、情報社会における情報発信のツールを使わずして、情報社会に口を出すのはおこがましいという気持ちからです。2月初めにtwitterを始めてみたものの、どうも性に合いません。遅ればせながら、Blogを経験してみようと始めました。これまでにも、専門家相手の論文以外に、教科書や解説といった文章も書いてきましたので、書くこと自体は慣れているつもりですが、Blogでの発信はやはり違うようです。長きにわたって社会に定着した書物とは違った形のBlogというメディアでは、発信者と受信者の関係が(匿名性を含めて)一種の「おもむき」を作り出しているようです。

この一月の経験をもとに、今後も継続して発信したいと考えています。

大学教員の流動性

この時期、大学では恒例の退職教授惜別会が開かれます。今年は、われわれの研究科でお二人の先生が定年で退職されます。

大雑把に言って、研究科には30名の教授と70名の准教授・講師・助教がいます。研究科ができてから満9年、この間、これまでに8名の先生方が定年退職していますので、今年で10名ということになります。これも大雑把ですが、平均して毎年1名の教授が退職するといってよいでしょう。30名の教授で全100名の教員からなる組織で、この数はどうなのでしょうか。

これだけの情報からでは、「1年で1%しか入れ替わらない膠着した組織」といったイメージが浮かぶかも知れません。しかし、実態はというと、外部からの教授の就任や、若手の教員の入れ替わりがかなりあります。2004年度から3年間に(内部の昇任を除いて)新規に採用された教員は約30名でした。100名の組織で年平均10名が新規に採用されたのですから、毎年10%の入れ替わりがあったということになります。任期制のポストはありませんでした。

組織の性格によって違うでしょうが、年間に10%の教員が入れ替わっているというのは、継続的に教育を行う研究科としては適正なものだと思います。他の組織ではどうなのでしょうか?任期制によって流動性が高くなるということがあるのかも知れませんが、そのような制度がなくても流動性は保たれているといえるでしょう。

一般に、「膠着した組織」という大学像が多く報じられますので、それが社会に印象づけられてしまいます。それを解決するために、「流動性を高めるために任期制を導入する」という「名案」を生み出したのでしょう。しかし、これでは、組織の自律性を無視して「制度」に頼ることになってしまいかねません。

2010/2/20に「大学の国際化の目指すものは?」を書いたときとおなじ思いがあります。大学人は特別なプログラムや制度がなくてもできることをやるというのが筋ではないでしょうか。

シミュレーション技術と計算機科学

今日の夕方、JSTの「シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築」領域の打上げ会があります。7年ほど、アドバイザとしてお手伝いしました。というよりも、むしろ、各プロジェクト実施の研究者の方々から計算科学の実態をお教えいただいたように思います。これまでにも取り上げたことのある Parallelism-Oblivious Parallel Programming (POPP) という考え方が大事ではないかと思ったきっかけの一つだといえます。

余談になりますが、以前から、どうしようかと迷っていたのですが、Parallelism-Oblivious Programmingよりも、上に書いたPOPPのほうが誤解がないと考え、これからはPOPPにしようと思います。一月前、2010/2/16の「並列性忘却プログラミング」にもそのようなことを書きました。

モデル化を行ってシミュレーションによって物理的・化学的な現象を検証するというアプローチを「計算科学 (computational science) 」と呼ぶのが一般的でしょう。そこでは、スーパーコンピュータが活躍しますが、そのために(並列)プログラムを開発することが大きな課題となります。このような計算科学は、「理論」、「実験」に続く第3の研究方法論だそうです。科学の方法論には詳しくありませんので、このようなメタな議論には参加できません。しかし、シミュレーション技術が自然科学の方法論に影響を与えたことは分かります。

計算的手法による研究は多くの分野で一般的になってきています。いくらか抽象的ですが、計算科学を超えて(?)既存の知を高度に活用する第4の方法論として 「E-サイエンス (E-science) 」というものもあるそうです。目新しい用語に人が群がる姿はこれまでにも多くありましたが、ことばにしても概念にしても外国からの移入がほとんどです。E-サイエンスについては、計算科学とどこがどう違うのか、概念やねらいを正確に理解してから考えたいと思います。

このように、もう第4の足音が聞こえてきているところだそうですが、それでもなお、第3の方法論と言われる計算科学の核となるシミュレーション技術が多くの分野の研究を支えることはたしかでしょう。その基礎となるプログラム開発の手法、プログラミング方法論など、「計算機科学 (computer science) 」の研究が縁の下の力持ちとして支えることが大事だと思います。新たな方法論だけに向かうことだけでは困るでしょう。

今夕の打上げの後のことはまたいつか書くことにしたいと思います。