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百聞は一見に如かず

2月半ばに始めたこのBlogも3月を迎えました。

慣れないことでしたので、ときには力任せに長々とした文章をかいてしまったこともあったようです。Blog全体のタイトルが殺風景だということも気になっています。なにか、キーワードがあれば書きやすいのではないかと思い、ふと、思い浮かんだのが「百聞は一見に如かず」でした。

どうやら、私はけっこう、やってみようとするたちのようです。もっとも、ものによりますが・・・。「百聞は一見に如かず」は広辞苑によれば、

[漢書趙充国伝] 何度も聞くより、一度実際に自分の目で見る方がまさる。

とあります。英語では、研究社の新英和・和英中辞典では、

Seeing in believing.

がピッタリのようです。あるとき、「『理論』も大事だが、それにも増して『実践』も大事」ということを示すのに、英語で

An ounce of practice is worth a pound of theory.

という諺を使いました。最後の”theory”のところを”precept”、あるいは”preaching”とするのがもとのことばのようですが、それだと、「百の説教より一の実行」になってしまい、上からの目線という感じがします。教え諭すときに、何度も説教するよりも一度、実践した方が効き目があるということだそうです。

それよりも、理論に関わりをもっている者が実践を軽んじることがないようにと、practiceとtheoryを使おうというのが私の気持ちです。ソフトウェア科学の研究をやっている中で、情報技術の発展を実感しながら、情報社会で実践することを通して、いろいろなことを学びたいと思います。「百聞は一見に如かず」とピッタリかどうかは疑問ですが、もう一度、

An ounce of practice is worth a pound of theory.

日程調整ツール

先日、「メールの添付ファイル」で日程調整のためのメールの添付ファイルのことに触れて、それは手がかかるのではないかと書きました。それでは、メールで調整というのでなければ、どのようにすればよいでしょうか。

私は「調整さん」

http://chouseisan.com/schedule

というサイトを使わせてもらっています。

研究者は自らのスケジュールで行動している人が多いので、定期的な会合予定はともかく、不規則に発生する会合のための都合を合わせるのは一苦労です。大学では学位論文の審査を行うときの審査員の日程調整がたいへんです。われわれのところでは、5名以上の教員によって審査会を開きます。ほとんどはおなじ大学のおなじ研究科に所属する教員なのですが、それでも都合のつく時間帯はまちまちです。出張で不在、といったこともあります。

組織に導入されているグループウェアで日程調整ができることもあるでしょうが、グループウェアでは私的な呑み会の調整はできないでしょう。「調整さん」以外にも、同様のサービスがあるのではないかと思いますが、これは無償で提供されていてなかなか便利です。

メールの添付ファイルで日程調整をするときには、幹事役の都合のつく時間帯を候補日時として、各メンバーから都合のよいところをマークしたファイルを返送してもらうということになります。このやり方では、メンバーはふつう、他の人の都合は見ないままに回答するでしょう。しかし、「調整さん」のサイトでは、メンバー全員の回答の様子が分かりますので、他の用務と重複するようなときにも、自分の予定の変更に努力するといったことが期待できます。そこにはメンバー相互の関係(?)によるところがあるかも知れません。その意味では、けっこう、人間味のある日程調整ということになるでしょうか。

実際の利用法は上記のサイトで確かめていただきたいと思います。もちろん、セキュリティに深く関わりがあるような場合には適していません。日程調整の段階では、会合の詳細や、メンバーが特定されないように注意すれば済むことですが、気になる方もあるでしょう。このように、どのようなときにも使えるというわけではないのですが、幹事役はもちろん、メンバーも登録する必要がないという、こうしたツールの方が、利用者をガチガチに決めたシステムより簡便だといえます。

「・・・を科学する」こと

名詞に「する」をつけて動詞として使うのはあまり好きではありません。しかし、数年前に、「サービス」を科学的に捉えようという新たな考え方に共鳴して、大学における産学連携研究会のお世話をしたときには、「サービスを科学すること」と題してキックオフの基調講演をしました。2006年10月13日のことでした。

http://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/kyogikai/forum/forum7.html

それから2年余り、産学連携でこのテーマについて共同でサービスイノベーション研究会を開催して、2009年2月23日に報告書とそれに基づく提言書をまとめ、3月9日にはその報告を兼ねてフォーラムを開きました。提言書と報告書は

http://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/service-innovation/index.html

にあります。

「・・・を科学する」というのは、私には魅力的な言い回しです。科学的方法を追究するということを、これほどまでに簡潔に表現することばが見あたりませんでした。最初に書いたように、「名詞+『する』」は気持ちが悪いのですが、それにもかかわらず、このことばを使いました。ひょっとしたら、新しい分野の創成といった(私にとって)未知の領域の科学を探ろうという気持ちがあったからかも知れません。

さて、上にあげたURLのページには、提言書を英訳したものも置いてあります。提言の冒頭には、

「われわれは2006年10月から2年半にわたり、産学連携によるサービスイノベーション研究会において「サービスを科学する」視点の確立によるイノベーションに向けた議論を行ってきた。」

というくだりがあります。英語版ではどうでしょうか。

For over two-and-a-half years, commencing October 2006, discussions have been held under the Service Innovation Research Initiative in a collaboration between industry and academia with an eye towards realizing innovation through the establishment of a perspective based on Scientific Study of Services.

となっています。もちろん、全般的に逐語訳ではありませんが、ここでは「科学する」を “Sciencing” とは言っていません。”Sciencing” も聞き慣れない単語で、英語の「・・・する」風の造語でしょうが、Webで検索するとかなり使われていることが分かります。

実は、こういうこともありました。2008年5月21日にシンポジウムISAS2008

http://www.rel.hiroshima-u.ac.jp/isas2008/

で研究会の概要を話すようにと依頼を受け、英語版の説明スライドを作りました。そのときには、2007年10月12日付の提言について述べましたが、そこには、”Sciencing Services” という表題のページがありました。スライドではつねに引用符をつけた単語として “Sciencing” を使っています。

それから10ヶ月後、2009年の提言書を英訳する際には、”Sciencing” についてかなり調べました。ISAS2008は口頭での発表だったからというわけではないのですが、そのときには時間的にも十分に調べることができませんでした。白状しますと、そのときから、本当にこれでよいのか、と気になっていたのです。

いくつか、根拠となることはあるのですが、手元にある控えでは、たとえば、

http://www.science.ca/askascientist/viewquestion.php?qID=3432

にあるように、新語として “Sciencing” が使われたのは幼児教育の場であるということです。現在もその分野ではよく使われているようですが、もちろん、「対象物を科学的に取扱う」という、一般的な使い方も少なくありません。

しかし、「サービス」を対象とする場面で、新しい用語を使って誤解を招くのはよくないと考えました。そこで、2009年の提言書では「サービスを科学すること」を “Scientific Study of Services” としたのです。もっとよいことばがあるかも知れません。

さて、昨日の記事「規制を緩和するということは」の中で、「今日、1件、申込みしました」と書いたのは、「サービスを科学する」と題したフォーラム

http://www.prime-pco.com/ss-jst2010/

のことでした。やはり「・・・を科学する」は魅力的です。

規制を緩和するということは

ものごとを決める議論の中で、効率的で効果的な方策を提案したときにも、それが窮屈だと、その規制や制約を緩和する方向の意見が出ます。ひとたび、そのような意見が出ると、結論がその方向に進みがちになるということは往々にして経験します。

しかし、一方で、2009年1月12日から施行された米国の入国制度ESTAの手続きには、少々、驚きました。日本の外務省も

http://www.mofa.go.jp/mofaJ/toko/passport/us_esta.html

で案内しています。Electronic System for Travel Authorization (電子渡航認証システム) というのですから、そうかと思えるところもあるのですが、なにしろ、専用のWebサイトからしか申請できないというのです。紙媒体の申請はもちろんのこと、大使館等の窓口で申請するということさえ排除しています。

ここには、情報力格差(ディジタルデバイド)への配慮といった観点は見られません。なるほど、こういった決定もあるのか、と思ったものです。これは、規制というわけではありませんが、より広い可能性は排除して、一つの方向づけに強制してしまった例でしょう。これを「緩和」するところは、手数料収入を得て代行するという民間のサービスに委ねたというわけです。

最近では、わが国でも(参加費が無料の)シンポジウムなどでは、Webを通じてのみ受け付けるという例も増えたように思いますが、それも「無料」だからかもしれません。今日、1件、申込みをしました。

このように、情報技術によって効率的な方法をとろうとすると、それ以外の可能性を制約してしまうことは往々にして起こります。そして、こうしたシステムを導入しようという議論になると、「従来型の」FAXや文書でも受け付けることにすべきだ、という緩和策が出てくるのです。結局のところ、新しい試みは従来型のものと併用することになって、かえって手間がかかるということにもなりかねません。痛し痒しといったところです。

もちろん、情報力格差への配慮は必要ですが、対象とする人たちの範囲が特定できるようなシステムでは、うまく合意形成をして効率的な方式をとるようにすることもできるでしょう。また、非常に難しいことでしょうが、一般利用者向けの情報システムでも、そのアキレス腱ともいえる「従来型との併用」システムの解決策を考える時期にきているのではないでしょうか。「規制緩和」が「正論」ではあるのですが、どこかで「規制する」ということも必要ではないかと思います。

メールの添付ファイル

最近、ファイルが添付されて届くメールが多くなっているような気がしています。どの程度か調べてみました。10年少し前から、やりとりしたメールを保存していますので、それを使いました。メールアドレスは仕事用のもので、もちろんのこと、スパムメールは除いています。

まず、送受信メールの状況は、以下のようでした。2006年まで単調に増加していますが、2007年から少し減り気味です。振り返ってみても、2004年から2006年までは仕事の面でやりとりが多かったと思います。

最近は全メール数に占める発信・返信の比率は20%強といったところです。もちろん、自らが発信するメールもありますので、メールを受け取ってから、求められている返信をしたもの、あるいは求められていなくても返事したものというのは5通に1つはないといえます。普通、そのようなものでしょうか。

メール数 発信数 比率
1999 6074 1573 0.26
2000 8005 2082 0.26
2001 8550 2214 0.26
2002 11217 2958 0.26
2003 12452 3717 0.30
2004 14522 3873 0.27
2005 15845 3568 0.23
2006 20725 4356 0.21
2007 14437 2975 0.21
2008 13526 3014 0.22
2009 12120 2667 0.22

一方、ファイルを添付したメールの数は以下のようでした。

メール数 添付メール数 比率
1999 6074 89 0.01
2000 8005 317 0.04
2001 8550 687 0.08
2002 11217 996 0.09
2003 12452 1539 0.12
2004 14522 2320 0.16
2005 15845 2384 0.15
2006 20725 2546 0.12
2007 14437 1795 0.12
2008 13526 1915 0.14
2009 12120 1787 0.15

10年以上前には数%だったのですが、その後、次第に増えてきた様子が分かります。全メールに占める割合が15%というのですから、多いと感じるのも当然でしょう。

最近、MS WordやExcelのファイルが添付されていて、それに書き込んで返送するように指示されたメールを受け取ることが多いように感じます。このようにして受け取った添付メールの返信はまた添付メールになりますので、添付ファイルの送信者は上の統計に2倍の貢献をしているといえます。とくに、会合のなどの日程調整のために、日付を書き込んで都合を記入するようにというExcelファイルが多いと思います。

私はこの日程調整のような添付メールは好きではありません。こういった意見を持っている人は少なくないでしょう。多くは、メールの本文にテキストで返信用の項目を書けば済むことを、どうして添付ファイルを使うのでしょうか。人それぞれにメールを読む環境は違うでしょうが、少なくとも、日程調整のために別のアプリケーションで添付ファイルを開いて入力をするというのは面倒ではありませんか。

メールは次第に、小包や宅配便につける送り状のようになってきているのかも知れません。本体は添付されたファイルだというわけです。このような流れが続くとなると、とくに、添付ファイルの大きさへの関心も薄れそうです。今では、平気で4MBのファイルを添付して送ってくる非常識な人がいます。以前からネットワーク利用時の「常識」が問われていましたが、ますます、リテラシーを身につける必要性があるといえるでしょう。

「たとえば、・・・」ということ

現象を観察して一般的な帰結を説明するときや、論理的に結論づけられる一般的なルールをわかりやすく説明するときには、一般論を述べた後で、「たとえば、・・・」という表現を用いることがよくあります。とくに教科書など、説明を補強するときによく使います。また、専門的なことを一般の方々に説明するときにも使うことがあります。

しかし、この「たとえば、・・・」も結構難しいところがあります。まず、第一に、そこで述べることが、本当に、一般的なものの例になっているかどうかということがあります。正しくない「事実(?)」を例えにあげるのは論外ですが、そうでなくても、うっかりすると、読み手が納得してしまうようなこともあります。その事実を確認する手間が大変な場合には、その例が一人歩きしかねません。

先日、行政における電子申請の実態に触れた文書を共同で用意していたときに、利用度の低いシステムの事例として「○○電子申請システム」を示したところがありました。文脈からは、それはそれで(そのようなシステムが実現されていたとすれば)納得できるものでした。しかし、そのようなシステムはどうやら実現された形跡がないのです。うっかりしていましたが、チェックの段階で気づいて事なきを得ました。冷や汗ものでした。

40年以上前の学生の頃に教わったことを思い出します。数値積分法にシンプソン則 (Simpson則) というものがあります。積分区間を等間隔hで区切った点の関数値で定積分の値を近似しようとするものです。当然、誤差が出ますが、その誤差がhの3乗に比例することは解析的に求められます。教わったのは、その計算法を「たとえば、・・・に適用してみると」という実例です。

計算の誤差を見るのですから、真の値が簡単に計算できる例が必要だということは分かります。もちろん、本当にシンプソン則を使うときには、解析的に真の値が得られないからこそ近似するわけですが、ここでは計算法の理解と誤差の見積りを学ぶところですから、代表的な被積分関数を適当な区間で積分したものが例になるでしょう。当時、教わったのは、1/(1+x*x) を区間 [0, 1.2] で積分するものでした。この被積分関数の不定積分は arctan(x) ですから、区間 [a, b] で積分した真の解は arctan(b)-arctan(a)として求められます。とくに、a=0, b=1 ならば 45° の角ですから π/4 として筆算で求めることもできます。では、なぜ、この例では b=1 ではなく b=1.2 だったのでしょうか。講義ではその種明かしもされました。

シンプソン則の誤差は、細分区間幅hの3乗に比例するのですが、その係数は被積分関数f(x)の3次導関数によって表される(f”’(b)-f”’(a))に比例するということが分かります。ところが、ここで扱っている例では、f”'(1)=0,  f”'(0)=0 となって、b=1の場合にはhの3乗の係数は0になってしまいます。もちろん、これは誤差が0というわけではなく、実はhの5乗に比例するという特異な場合になっているのです。そこで、講義で教わったのは、一般的な場合の b=1.2 だったというわけです。ここまでの種明かしがあったからこそ今も憶えているのかも知れません。

当時、別の教科書で、その本質に気づかずに b=1 の例をあげてあるものがあったので、「見かけで信用してはいけない」「まねをしても馬脚を現す」ということも教わったのです。同時に、「たとえば、・・・」の怖さも知りました。大昔のことではありますが、印象に残っています。

ドラマ「24」のなかのビデオ会議

昨年の秋に、アメリカFOX TVのドラマ「24(Twenty Four)」のことを知りました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/24_-TWENTY_FOUR-

シーズン1は2001年に放映開始ということですから、ずいぶん昔のことです。

実は、2/15の「学術会議に関する朝日新聞社説について」で触れましたが、学術会議でビデオ会議の利用を検討している中で、「24」にWebExというWeb会議システムが出てくるという話を聞いたのがきっかけでした。以前から話題になっていたドラマだそうですが、それまではまったく知りませんでした。もっとも、WebExが出てくるのは2009年に公開されたシーズン7ですから、WebExの利用場面だけならばそれを見ればよかったことなのですが、話の筋というのもあるかと、まずはシーズン1からDVDを借りて観ることにしました。2001年のものです。ちなみに、シーズン7の場面では、

http://newsroom.cisco.com/dlls/2009/ts_032709.html

にあるように、ある人物が大統領の特赦を受けるための大統領のサインをWeb会議システムで共有して、重要な証言をするというところです。

ドラマの中では、大統領が飛行機内で執務中の副大統領と相談したり、離れた場所にいる政府関係者と会議をするのに、ビデオ会議(遠隔会議)システムを使う場面がよく出てきました。シーズン2あたりに出てきたように思います。2003年頃にホワイトハウスでは本当にこのようなことをしていたのでしょうか。初めのころは遠隔会議専用システムの代表格であるPolycomのマークが見えましたが、最近はこのような専用の機器ではなく、PC上のWeb会議システムが使われているようです。

WebExは研究室で1年ほど契約しています。簡単に、Webブラウザさえあれば多地点で画像、音声の会議ができます。PC画面の共有もできますので、プレゼンテーションには便利です。ただ、音声については、米国では電話を併用するというのが一般的だそうで、VoIPでの音声通話にはコツがいる感じです。

2地点でよければSkypeが便利です。最近、画面共有ができるようになりました。音声だけならば、多地点も問題ありません。もちろん、無料ですので、気楽に使えます。

3地点まで無料というのがAcrobat Connect Nowです。4地点以上になると有料のサービスが提供されています。

研究室ではこうしたビデオ会議システムを頻繁に使っています。最近のTVコマーシャルで、人が移動しないでよいので「エコである」といったものを目にしますが、そういった利点もあるでしょうが、なにより、移動に要する時間の節約というのも大きいでしょう。議論する内容を面と向かって議論するには適していませんが、ひとたび内容が決まったときの議論や、プレゼンテーションによる相談などには非常に便利です。

ドラマ「24」の場面では、これを含めて米国の大統領の近辺の情報機器の描き方に興味をもちました。

ドラマ「24」それ自体は、1シーズンが約45分×24巻=18時間ですから、シーズン7まで、ずいぶんと見たことになります。「おもしろい、おもしろくない、という以前に、続きを見ないわけにはいかない」といった感じの作りで、精神的に疲れる部分もありましたが、最近、米国で放映されたというシーズン8のDVDを待っています。

親の背中

今、大学ではさまざまなアファーマティブアクションがとられています。

・外国人教員の採用

・女性教員の採用

・若手研究者の流動性の確保

などです。

いずれも、人事に関わることですので、教員個人でできることではないのですが、それでも個人の考え方に基づくところが大きいといえます。

しかし、これらについてはどれも、すでにやろうと思えばできたことです。すでにできたことを新たな施策だとして喧伝することには違和感があるというのが実感です。今日、旗を振って進めていることの多くはそうです。それをやっていなかったからといって、実施前と実施後の差分を求めるやり方がほんとうによいことなのでしょうか。すでにやっているところでは、そこで経験した人やそれを見ていた人にはあたりまえのことになっているでしょう。若手は「親の背中」を見ています。

最近の傾向として、これまでやっていなかったことを実施するようにとのインセンティブ経費の措置が多いように思います。もちろん、それで望ましい方向に向かうのはよいことなのですが、すでにやっているところはどうなのでしょうか。できているからもういいではないか、といわれかねません。やっているところでは経費の面でも努力しているでしょう。そこに、さらなる展開のために支援するといった考え方も大事ではないかと思います。

国際化、男女参画、若手の流動性などの話題が出るたびに思うことは、なぜ、特別な措置が行われなければできないのかという疑問です。重ねてのことですが、これまでも、やればできたのです。すでにやったところでは、何かを求めたわけでもないでしょう。また、そのような要請があったわけでもないでしょう。このような話題が出るにつけ、目新しさに目を奪われて本質を忘れてしまいがちになります。目新しいえさに振り回されずにやるべきことを実行する人が増えることを期待しています。次代の人材は「親の背中」を見ています。次代のために行動しようではありませんか。

「・・・さん」と「・・・氏」

最近、文書のなかに「○○さんにお世話になりました」といった表現のあるのを目にするようになりました。ここ数日、日本語で書かれた修士論文や卒業論文に目を通していて、いくつもの論文の謝辞にこのような表現があったので気になっています。

私は日本語を専門とする者ではないので、学術的な見方はできませんが、なんとなく、しっくりきません。話し言葉では「○○さん」というのが一般的ですし、もちろん、私もそう話します。とくに、面と向かって二人称として呼びかけるときには、他の呼称がないときにはこれしかないでしょう。親しい間柄のときには、ほとんど「○○さん」です。

しかし、他人が目にする文書の中で、三人称としての人名には「氏」をつけるものだと思って、長い間そのように実践してきた者が、「○○さん」を見ると、背中がかゆくなります。メールのメッセージでは、ときに相手の方を指す二人称も現れますが、三人称としての人名がほとんどでしょう。メールの場合には、それを受け取って読む相手が特定できますので、双方にとって親しい方を指すには「○○さん」も使いますが、なにより無難(?)なのは「○○氏」ではないでしょうか。

このような表現に現代的な基準というものがあるのかどうか、また、そのようなことはどこで教わるのか、疑問になってきました。大学生の頃、句読点の使い方、英文のコンマとセミコロンの使い方、数学によく現れるギリシャ文字の読み方などは、(日本語や英語の講義ではなく)専門分野の講義の中で、「・・・だから、注意するように」といった形で教わったように記憶しています。思いや感情を述べる文章はともかく、論文のような客観的で論理的な文章の構成やスタイルについては、卒業論文を書く機会に教わったのでしょう。私も、研究室では折に触れてこのようなことを指摘していますが、それでも「えっ」と思うことがあります。

一週間ほど前に「並列性忘却プログラミング 」について書いたときに、プログラムのスタイルに触れました。1970年頃の The Elements of Programming Style が頭にありました。木村泉先生の翻訳版は「プログラム書法」という書名です。

http://www.amazon.co.jp/Elements-Programming-Style-Brian-Kernighan/dp/0070342075

http://www.amazon.co.jp/プログラム書法-第2版-Brian-W-Kernighan/dp/4320020855

プログラムの記述のスタイルを述べているものですが、たしか、その著者たちが英文の書き方を述べた名著 The Elements of Style を引用していたように記憶しています。先日、手元にあったものを探したのですが、見あたらなかったので Amazon から購入しました。いくつか版があるようですが、私が購入したものは

http://www.amazon.co.jp/Elements-Style-Fourth-William-Strunk/dp/020530902X

です。懐かしく読んでいます。

日本語にもこうした教科書があるのでしょうが、適切なものを知りません。少し探してみたいと思います。

大学の国際化の目指すものは?

大学の国際化が話題になっているようです。国際化というのは、とくに最近、というわけではないのでしょうが、文科省で施策として競争的プログラムの公募があったり、国際的な大学ランキングのことが話に出るということもあるのでしょう。

一言で「国際化」といっても、目指すものは大学ごとに、また、大学内でも研究科や学部ごとに違うでしょう。分野によっても大きく違うことだと思います。個人はもちろん、研究室といった小さい組織では目指すものをはっきりさせることができるでしょうが、大学という規模になると、さまざまな考え方があって、ことばはよくないかも知れませんが、総花的になってしまいかねません。わが国の学生や教職員が国際的な場で活動するということもあれば、外国から学生や教職員を迎えて国際性のあるキャンパスにするといったこともあるでしょう。

大学はこれまでに十分な国際化をしてこなかったのでしょうか?なぜ、不十分だというのでしょうか?大学人はほんとうに国際的な活動をしていないのでしょうか?

分野にもよるでしょうが、私のまわりでは、教員はふつう国際会議に論文を投稿して発表に出かけるというのは日常的になっています。大学院の学生や研究員の人たちもおなじです。研究室には外国からの留学生の人もいますし、外国から研究者が訪れます。これが、目指す「国際化」であればそれでよいのでしょうが、最近、まわりでいわれる「国際化」はどうも、それだけではないようです。

英語の講義だけを受講して大学院の単位を取ることができるようなコースを作るとか、若手の研究者・教員を何ヶ月か海外に派遣する、といった目新しい(?)ことが始まりそうです。いずれも、トップダウンに、文科省がそのような計画の提案を大学や研究科から求めて、選定して経費を支援したものです。

これまでは、このような「国際化」はできなかったのでしょうか?何か制約があったのでしょうか?

いずれも、やろうと思えばできたことです。もちろん、やろうとするためには経費が必要だということもあるでしょう。それならば、その計画をもとに予算を要求するというのがボトムアップにで大学らしい進め方だといえますが、こうして経費を得ることが難しくなっていることは分かります。しかし、Curiosity-drivenの気質が身についている大学人が、自らが提案したとはいえ、枠にはまった形のTarget-orientedな国際化を推進するには苦労することでしょう。

個々の大学人が日常的な国際化に努めるのがいちばんだと思います。すべての講義を英語で受けなくても、英語の教材や論文を使った講義には留学生の多くが受講します。また、講義やセミナーでの学生のプレゼンテーションは英語でも日本語でもよいではありませんか。ずいぶん前から、私の研究室でのセミナーは日本語、英語が混在しています。火曜日の午後には、研究室以外にも声をかけてセミナーや講演会をやりますが、そこに日本語が達者でない研究者や学生も参加しますので、日本人も英語で発表し議論しています。もちろん、完璧な英語というわけではありませんが、専門を同じくする研究者仲間が研究上の交流をするのですから、それほど難しくはありません。このような雰囲気を作るというのが国際化の第一歩だと考えています。

まずは、できることをやることが第一歩でしょう。そのような活動は続きます。時限のある経費に基づく活動はどうやって継続するのか、今から考えておかなくてはなりません。目指すものはさまざまでしょうが、個々の大学人の意識と行動が基本だと思います。