Monthly Archives: 3月 2010

「情報学」の研究者数

2010月3月6日には、日本学術会議主催の「情報学シンポジウム」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/86-s-3-4.pdf

があったことに触れました。

そのときにも感じたのですが、「情報学」とはどの範囲の学問でしょうか。かなり幅広いことは多くの方々が認識しているでしょう。

以前から、「情報学とは」といった議論がありますが、ここでは、それを繰り返すつもりはありません。現在、文科省の科学研究費では、「総合・新領域系」の「総合領域分野」の「情報学分科」として『情報学』が現れます。『情報学』には、「情報学基礎、ソフトウエア、計算機システム・ネットワーク、メディア情報学・データベース、知能情報学、知覚情報処理・知能ロボティクス、感性情報学・ソフトコンピューティング、図書館情報学・人文社会情報学、認知科学、統計科学、生体生命情報学」といった11の細目があります。とりあえず、これら11の分野を現代の『情報学』とするのが一つの考え方でしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_20.pdf

このような情報学分野の研究者は学術の全分野に対してどの程度なのでしょうか。もっとも、ここでは大学に限ってのことで、企業の研究者の方々についての情報は私には分かりません。科研費の配分データも公表されていますので、これが参考になるでしょう。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/02/01/1289168_07.pdf

ところが、ここでは、分科・細目ではなく、「分野名」という別の基準によって集計されているのです。その理由は分かりません。「情報・電気電子工学系」というのがあります。ピッタリではないにしても、近いと考えられるでしょう。この分野の採択件数は、かなりの年にわたって6%強です。このあたりが学術全体に占める「情報学」の割合とみてよいでしょうか。

日本学術会議には専門分野として30分野があります。その一つの「情報学」に所属する会員は、全会員210名に対して12名です。また、連携会員約2,000名に対して111名です。これらは、「情報学」が5〜6%であるということを表しているといってよいでしょう。私の所属する総合大学でも、教員数の比率はほぼこの程度だと思われます。

「情報学」の範囲が広いからといって、学術分野の10%が情報学ということはなさそうです。大雑把に言って、5〜6%だと考えてよいでしょう。

それでは、これらの分野の大学教員はどの程度でしょうか。これも、非常に大雑把ですが、私は約2,000〜3,000人だと思っています。少し、古いのですが、5年ほど前に、国公私立大学の約200の理工系情報学科・専攻(学科と専攻の重複あり)に所属する教員(当時は、助手・講師・助教授・教授)2,600名の専門分野を調べたことがあります。学科や専攻に所属するものの、情報学分野とはいえない分野の方々が800名ほどということで、情報学分野には1,800名ということかも知れません。

では、博士の学位取得者は年間、どの程度でしょうか。これも、古いデータですが、2000年の論文タイトル4,000件ほどから、情報学分野だと思われるものを分類しましたが、それによると、年間300〜400名が情報学分野で学位を取得していました。今でも、それほど変わっていないのではないかと思います。2,000〜3,000名の教員が40年ほどで退職して、若手が補充されるということとすると、年間50〜75名分のポストが空くということになります。学位取得者が大学にポストを求める場合にはこのような現実があるわけです。最近では、博士の学位取得後に産業界で活躍する人が増えています。

情報学分野の大雑把な量的把握ができましたが、他の伝統的な分野のこのようなデータを知りたいと思います。とくに、博士課程の学生のことが話題になるときに、入学者が減っているという現実を改善しようという議論はにぎやかですが、学位の取得者が得ることのできる大学のポストについての話はあまり聞きません。このあたりのデータがあれば議論が分かりやすくなると思います。

学術全体の5〜6%が「情報学」、新たな分野としては大きいものといえるでしょう。学術だけでなく、社会に対する貢献も期待されています。

「ハード」と「ソフト」

一時期、計算機(コンピュータ)のハードウェアとソフトウェアを(日本語独特の)省略形で、「ハード」と「ソフト」と呼んでいたことがあります。なんだか、背中がむず痒くなってきます。もとの英語では形容詞、カタカナ書き「日本語」ではこれを名詞として使っています。

ところが、最近では、一般社会でも「ハード」と「ソフト」が使われることが多いように思います。

「ハードウェア(hardware)」ということば自体が、本来は「(木製のものではない)金物」を指していたものが、計算機のハードウェアなどの物理的な装置や機械を表すように変化した、あるいは、転用されたのだし、それに対比して「ソフトウェア(software)」ということばが生まれたのですから、生き物であることばに慣れていないからといって文句をいうのはおかしいかも知れません。

しかし、「ハード」、「ソフト」を名詞として使うのはどうでしょうか。とくに、最近は、一般社会における施設や設備を「ハード」と呼び、規則や制度を「ソフト」ということが多いようです。こうした場面では、ハードウェアやソフトウェアといったことばでは呼ばないのかも知れません。そう表現しようという意図は分からないわけではありません。また、そのように書かれているところを、「ハードウェア」、「ソフトウェア」と置き換えればすっきりするかというと、そうでもない感じです。いつのまにか、定着したのでしょうか。

この間、学術的な論述の中にある「ハード」と「ソフト」を見たとき、さてどうしたものかと悩んだものです。極めつきは、「・・・などの『ソフト学問』に通じた・・・」という表現でした。ここでは、「ソフト」は本来の形容詞でしょうか?なんとなく分からなくもないのですが、日本語で精確な意味を表現できないような、あるいはそうしたくはないような場合に、カタカナ書きで「ハード」や「ソフト」を使っているのではないでしょうか。論述には適当なことばだとは思えません。

また、よく見るカタカナ語に「インフラ」があります。もちろん、「インフラストラクチャ」 (infrastructure) の短縮形(?)ですが、こちらは、infra- が接頭辞として

「下に,下部に (below)」の意 (#→supra‐).[株式会社研究社 新英和・和英中辞典]

とあります。普通に使っている「インフラ」はほとんどの場合、「インフラストラクチャ」ですが、これが長いので面倒になって短縮したのでしょうが、なぜ、「基盤」としないのでしょうか。

ここで、「日本語の乱れ」といったことを論じたのではありません。そうするには体系的な調査や断じるための根拠が必要でしょう。そうではなくて、「なんとなく雰囲気を伝える」カタカナ書きのことばが学術的な場面にも現れてきたことに違和感があることを伝えたいと思ったのです。

いかがでしょうか。

科学者の行動規範とAcademic Honesty

一昨日、東京大学の133年の歴史の中で初めてという学位授与の取消しを聞いて、「知を窃(ぬす)んで地に落とす」と書きました。科学者にとっての規範が問われることは他にもありますが、あらためてその重要性に気づかされました。

日本学術会議では、2006年10月3日に声明「科学者の行動規範について」を出しています。

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-s3.pdf

科学者として自ら律することを明確に述べたものです。

各大学、各機関にもそれぞれ規範があるでしょう。東京大学には

http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/res/res4/kihan/kihan.pdf

があります。

今回の学位授与に関わる問題は、科学者としての第一歩を踏み出そうとする、あるいは踏み出したばかりの大学院学生の行動に係るものです。もちろん、博士論文の執筆の指導における科学者としての行動も問われます。

大学院学生の行動規範というのはあるのでしょうか。昨年、今回の件がインターネット上で話題になったときに、ある方から問われました。私の知る限りにおいて、大学や研究科にはそういった文書がありませんでした。一方で、その方からは、外国の大学で大学院学生やその募集に向けて公表しているWEBページを教えていただきました。

http://www.grad.uottawa.ca/default.aspx?tabid=1378

私の研究分野である Computer Science を対象としているコロンビア大学の専攻のページも教わりました。

http://www.cs.columbia.edu/education/honesty

他大学でも使われているようですが、”Academic Honesty”ということばが新鮮で入りやすいのではないか、とのコメントもいただきました。まさに、そうだと思います。学生がレポートを作成するときの心得も書かれています。

科学者がもたなくてはならない倫理は、ややもすると観念的に捉えがちですが、先輩が若い科学を目指す者へ伝えるべき大事なことといえます。具体的な研究成果だけが科学者を育てるのではないということを認識すべきでしょう。

本末転倒?

今日は日本学術会議で情報学シンポジウムを開きました。

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/86-s-3-4.pdf

その前、午前中には情報学委員会と各分科会の合同会合をもち、さらに7つの分科会が開かれました。昨日、別の学内の会合の場でも話題になったことが、今日もまた話に出ました。「研究費と成果」の関係、目的と手段が逆転しているのではないかという懸念です。

昨日は、若い研究者と話した中で、研究費を手に入れる悩みを聞きました。大学の基盤的経費で十分に研究できるにこしたことはありませんが、そうはいかないのが現状です。大学における curiosity-driven 研究には科学研究費を得るのが基本です。分野によって、また研究費の額にもよるのですが、新規課題の申請件数に対する採択件数を見ると、平成21年度は24.9%でした。

http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/27_kdata/index.html

複数年の計画の課題については、一度、採択されると数年の研究は継続できますが、新規採択が1/4ということですから、科研費による研究費が途切れることはもちろん起こります。では、どうするのでしょうか。

研究者個人ではなく、共同で研究費を得る(研究代表者の共同研究者になる)こともその一つの対策でしょう。しかし、萌芽的な curiosity に基づく研究目的を共有することは常ではないでしょう。では、どうすればよいのでしょうか。他の研究費を得る途を考えることになります。産学連携も考えられるでしょうし、別のFunding Agency のプログラムに応募することも一般的でしょう。

問題は、そのような研究費を獲得することと、本来の研究のことです。研究費を獲得するための努力がなければ、本来の研究を進めることはできません。これが、施策による競争的資金による研究促進の目的でしょう。語弊があるかも知れませんが、「エサで釣る」わけです。このようにして獲得した研究費によって得られた公表論文や実験機器の試作品は、その研究費による成果です。

研究費がこのような使われるには問題ないでしょう。いえ、本来の競争的研究資金のあり方そのものです。しかし、ときにして、あるいは、往々にして、研究成果がないと次の研究資金が得られない、ということも起こります。科研費を初め、競争的資金は3-5年の年限があります。次の研究費のためには、実績を作らなくてはなりません。このときに、論文を何のために書くのか、公表するのかという話になります。これまでの論文がなければ、次の研究費が得られない、といった現実から、少々、無理にでも論文発表をすることになることが、「本末転倒」ではないかと思うのです。

若い研究者が(もっとも、これは年齢によるわけでもないのですが)、多くの時間を使って研究のための経費を工面しなければならない、しかも、それでも経費が得られないという現実は、自由に若い発想を大事にしようという考え方に反しています。それにも増して、それを理由に、「次期研究費のために論文を書く」という暗黙の理解がなされることに危惧を抱きます。

とくに、若い研究者に、このような「本末転倒」が生じないように研究費の「つなぎ」ができるような、セーフティネットを作ることが大事でしょう。研究スタイルは、研究生活の初期に得た経験が大きいと思います。本来の研究が先にあって、その成果を社会に還元するという研究スタイルを次代の研究者に提示することがきわめて大事だと考えます。

知を窃(ぬす)んで地に落とす

まことに残念なことです。いや、大学にいる者として、情けなく思います。それ以上に、責任を感じます。東京大学で学位授与が取り消されるという、重大なことがありました。

昨年の秋から、インターネットを通じて大きな話題になっていたことです。学位授与の取消しは剽窃、英語ではplagiarismによるものです。滅多に見ることばではないのですが、分かりやすくいえば「盗用」でしょうか。まさに、「知を窃(ぬす)む」ことが大学を「地に落とした」ということです。

大学の根幹的な役割の学位授与に瑕疵があったというわけです。社会に対する責任の重さを考えるにつけ、大学人として慚愧に堪えません。誤解を招くおそれがありますが、「こういうことがあるのか」というのが率直な印象です。学術に関わる者として、あらためて学問に対する謙虚さをもたなければいけないと思います。学位授与は大学、大学院のもっとも大事な機能です。社会に対して、学術を修めたことを証するわけですから、信頼できる限られた機関・組織にそれが認められてきたわけです。今後、いろいろな議論もあるでしょう。どうやら、新しい分野への視点をもった「論文」だったということです。学術の世界で新しい分野を拓くことはきわめて大事なことですが、そこに何があってもいいというわけではありません。

所属する研究科の近くにあり、しかも、以前に所属した研究科で起こったこの事態を深く考えることになりました。学内には他にもあるのではないか、といった議論になるでしょう。少なくともわれわれは学位授与に疑念が抱かれることはないと自信をもっています。

「剽窃」というのは程度問題ではないか、といった話も聞きますが、断じてそのようなことはありません。要は、学生の日頃の活動と成果をきちんと見れば分かることです。

こうした話とは別に、一方で学生の研究成果を「断じる」怖さも知らなくてはいけません。博士論文だけでなく、修士論文や卒業論文も同じでしょう。教育的で指導的な立場から、教員が同じテーマで考えることもあります。また、研究室の先輩が行った研究を引き継いで自身の研究にすることもあるでしょう。こうした学生の成果の中に、教員や先輩と一緒に得た成果を書いたときに、それをいきなり「剽窃」ということばで断じるというのは当たらないでしょう。若い人材に傷を負わせます。このような、過度な「剽窃」探しは「魔女狩り」になりかねません。

今回の件は、われわれにとっては本当に大きな課題を突きつけたことだといえます。今、私にはどうしてよいのか分かりません。大学が社会に責任をもち信頼を得るためにどうすべきか問われています。謙虚に考えたいと思います。

若手アカデミーとは?

今日は、大阪で開催された日本学術会議公開シンポジウム「若手アカデミーとは何か」

http://www.scj.go.jp/ja/event/pdf/90-s-1.pdf

に参加しました。この案内にあるように、ドイツ、オランダ、オーストリアではそれぞれの国で若手アカデミーが組織されて、活発に活動しているということです。また、ヨーロッパの40ヶ国のアカデミーの連合体ALLEA(All Europian Academies)でも、全欧で若手アカデミーを設立しようとしています。シンポジウムでは、ALLEA事務局長の講演がありました。さらに、2月にはベルリンで全世界的な若手アカデミーの設立準備の会合がありました。そこに出席した4名の若手研究者から詳しい報告がありました。

さて、「若手」は何歳でしょう?おおよそ、平均が35歳だということです。「アカデミー」の理念とは何でしょう?私は、わが国では日本学術会議の理念がそのままあてはまると思っています。実際、若手の方々の報告であがっていた目的はまさに学術会議の目指していることでした。

では、なぜ「若手アカデミー」なのでしょうか。わが国だけではなく、おそらく、他の国でも、アカデミーのメンバーは科学者・研究者の年輩層が占めていることの現れだと思います。大雑把に言って、25歳から40歳までの若手の科学者は、25〜70歳の科学者の1/3を占めるでしょうが、40歳以下の学術会議の会員は皆無です。

話が逸れますが、大学教員の職位は学校教育法によって決まっています。2007年4月に改定されて、職位は助手・助教授・教授から助教・准教授・教授に変わりました。この改定に伴う議論の中で、「若手研究者の自立性・自律性向上」が謳われ、「教授が白を黒と言えば、助手は何であれ『黒』と言う」だとか、「若手の研究に教授が口出しをして、若手は思ったように研究ができない」といった悪例を解消すべきである、といったことが話題になりました。正直なところ、「へぇ、今どき、そういう研究室もあるのか」と疑問に思ったものです。ないとはいえないでしょうが、どの程度でしょうか?データはあるのでしょうか?科学者はデータが基本であると言いながら、行政的な判断に与するときには、自らの経験や多勢の言動に惑わされる恐れがあります。年輩の老練の士は若手のことをおもんぱかって、よかれと思うことを断定的に言うのでしょうが、若手の方々はどう感じているのでしょうか。「助教」の若手科学者はこの職位の改定をどう思ったのでしょうか。

「老練アカデミー」でも、とくに、人材育成に関わる議論の中では若手のことを考えて、よかれと思う提案をしています。若手の方々の意見を聞いて判断しているのですが、それも老練者の考えの中でやっていることです。「聞いてやる」ということではないでしょうが、若手の方々の自律的な行動から示される意見とは違うのかも知れません。老練アカデミーの活動を批判的で建設的な目で見つつ、同じ課題に対して自律的に活動する「若手アカデミー」があれば、老練アカデミーの活動のチェック機構になるでしょう。科学には謙虚でなくてはなりません。科学者からなるアカデミーの活動でもそうでしょう。老練科学者には批判を活力に向ける智慧があるものと信じています。

最終講義を受講して

今日は最終講義のハシゴでした。南谷崇先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_1.shtml

と竹内郁雄先生

http://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/event/100219_2.shtml

でした。

南谷崇先生の講義では、新たな情報社会への研究の視点の重要性についてお話しがありました。以前に「「・・・を科学する」こと」で触れたサービスイノベーション研究会でもお世話になりました。「情報社会学」という新たな学問への取り組みは、日本学術会議で取りまとめている「日本の展望」の提言「安全で安心できる持続的な情報社会に向けて」で取り上げた課題解決への一つの道筋が示されたように思いました。

先生の講義の中で、大学運営に関することは、以前より私自身が研究科長の職にあったときに感じたことでもあり、あらためて身に染みて今後の大学運営のあり方に関する示唆を与えられたと思います。

これまでにもうかがったことではありますが、現在の大学、あるいはその組織において、健全な運営のために考えなくてはならないことが教えられたと思います。とくに、組織において、研究企画を担当する人材の話は、私も同じ思いを持ったものです。当時には、南谷先生と密接にご相談したことはないのですが、同じ思いを持っておられて実践されたことを改めて認識いたしました。

最終講義は、先輩の先生のお考えや実際のご経験をお聞きする貴重な機会だと思います。これまでにも、折に触れてご意見をお聞きしたことはありますが、あらためて別の視点から、お考えをうかがうことができました。

この時期にはこうしてお話しをうかがうことで、自らの考えを確認する機会を得ることができます。

もう一つの竹内郁雄先生の講義についてはあらためて・・・。

内包表記と並列性忘却と

プログラムで扱う値の集合(や列)を表す表記法として、内包表記(comprehension)というものを備えているプログラミング言語があります。聞き慣れない方もおられることでしょうが、数学の集合を書き表す際に馴染みのある

{x | x ∈ A, P(x)}

のような表現法のことです。この表現は、集合Aの元xのうちで、条件Pを満たすようなxからなる集合を表すものです。

この表現は、2/16の記事「並列性忘却プログラミング」、 すなわちPOP (Parallelism-Oblivious Programming) でも注目しています。集合Aをxを生成する生成子(generator)ということもあります。Aを生成し、Pでテストするということを自然に表わていますので、Generate-and-Test の方式で解を得る一般的な計算を表現しているといえます。そして、この表現の中には、逐次的に実行しなければいけないというところがない(生成したものをテストするという順序だけ?)ので、並列化の自由度が高いという点で、「並列性を意識しないで並列プログラムを開発する」ことにピッタリだというわけです。

この表記法、目新しいようですが、いつからあったのでしょうか。

私がこの表記法でプログラムを書いたのは、D.A.Turnerによる関数型言語Mirandaのシステムを使ったときでした。しかし、集合論のZermelo-Frankelの名を冠して、ZF-記法と呼んで関数型言語に導入したのはMirandaの前身KRCだったようです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Miranda_(programming_language)

Mirandaが出たのが1985年といいますから、もう四半世紀になります。TurnerはMirandaの前身の言語SASLやKRCを公開してから、いわば、製品版としてMirandaを出しました。SASLのインプレメンテーションには驚くべきアイデアがありましたが、その話はまたの機会にします。そのアイデアをもとにMirandaが開発されたのです。

話が逸れますが、開発者のTurnerはMirandaのライセンスを販売する会社Research Software Ltd. を作ったようでした。私は使ってみようとして、そこからMirandaライセンスを購入しました。20年余り前のことです。金額は忘れましたが、大学で英ポンドでの購入手続きは一般的ではなく、手間取ったことを思い出します。Mirandaを使ったプログラム例が拙文

武市正人. 関数プログラミングの実際. コンピュータソフトウェア8 (1), pp.3-11, 平成3年(1991).

にあります。実行例に

“The Miranda System version 2.009 last revised 14 November 1989, “

とあります。内包表記はそのプログラム例にも現れています。

現代的な(といっても、四半世紀以上前の)SASLやMiranda、それに最近のHaskellなどの関数型言語の表現法の原型は、1966年のISWIMにあるといえます。

http://en.wikipedia.org/wiki/ISWIM

しかし、プログラミング言語に内包表記を導入したのは1980年頃のKRCが最初でしょう。D.A.Turnerの卓見だといえましょう。

われわれがPOPの実験を行っている言語Fortress

http://projectfortress.sun.com/Projects/Community

にも入っています。

計算のステップを感じさせない水準の高いこのような記法がPOPの中核となるでしょう。

百聞は一見に如かず

2月半ばに始めたこのBlogも3月を迎えました。

慣れないことでしたので、ときには力任せに長々とした文章をかいてしまったこともあったようです。Blog全体のタイトルが殺風景だということも気になっています。なにか、キーワードがあれば書きやすいのではないかと思い、ふと、思い浮かんだのが「百聞は一見に如かず」でした。

どうやら、私はけっこう、やってみようとするたちのようです。もっとも、ものによりますが・・・。「百聞は一見に如かず」は広辞苑によれば、

[漢書趙充国伝] 何度も聞くより、一度実際に自分の目で見る方がまさる。

とあります。英語では、研究社の新英和・和英中辞典では、

Seeing in believing.

がピッタリのようです。あるとき、「『理論』も大事だが、それにも増して『実践』も大事」ということを示すのに、英語で

An ounce of practice is worth a pound of theory.

という諺を使いました。最後の”theory”のところを”precept”、あるいは”preaching”とするのがもとのことばのようですが、それだと、「百の説教より一の実行」になってしまい、上からの目線という感じがします。教え諭すときに、何度も説教するよりも一度、実践した方が効き目があるということだそうです。

それよりも、理論に関わりをもっている者が実践を軽んじることがないようにと、practiceとtheoryを使おうというのが私の気持ちです。ソフトウェア科学の研究をやっている中で、情報技術の発展を実感しながら、情報社会で実践することを通して、いろいろなことを学びたいと思います。「百聞は一見に如かず」とピッタリかどうかは疑問ですが、もう一度、

An ounce of practice is worth a pound of theory.