Daily Archives: 2010-02-21

「・・・さん」と「・・・氏」

最近、文書のなかに「○○さんにお世話になりました」といった表現のあるのを目にするようになりました。ここ数日、日本語で書かれた修士論文や卒業論文に目を通していて、いくつもの論文の謝辞にこのような表現があったので気になっています。

私は日本語を専門とする者ではないので、学術的な見方はできませんが、なんとなく、しっくりきません。話し言葉では「○○さん」というのが一般的ですし、もちろん、私もそう話します。とくに、面と向かって二人称として呼びかけるときには、他の呼称がないときにはこれしかないでしょう。親しい間柄のときには、ほとんど「○○さん」です。

しかし、他人が目にする文書の中で、三人称としての人名には「氏」をつけるものだと思って、長い間そのように実践してきた者が、「○○さん」を見ると、背中がかゆくなります。メールのメッセージでは、ときに相手の方を指す二人称も現れますが、三人称としての人名がほとんどでしょう。メールの場合には、それを受け取って読む相手が特定できますので、双方にとって親しい方を指すには「○○さん」も使いますが、なにより無難(?)なのは「○○氏」ではないでしょうか。

このような表現に現代的な基準というものがあるのかどうか、また、そのようなことはどこで教わるのか、疑問になってきました。大学生の頃、句読点の使い方、英文のコンマとセミコロンの使い方、数学によく現れるギリシャ文字の読み方などは、(日本語や英語の講義ではなく)専門分野の講義の中で、「・・・だから、注意するように」といった形で教わったように記憶しています。思いや感情を述べる文章はともかく、論文のような客観的で論理的な文章の構成やスタイルについては、卒業論文を書く機会に教わったのでしょう。私も、研究室では折に触れてこのようなことを指摘していますが、それでも「えっ」と思うことがあります。

一週間ほど前に「並列性忘却プログラミング 」について書いたときに、プログラムのスタイルに触れました。1970年頃の The Elements of Programming Style が頭にありました。木村泉先生の翻訳版は「プログラム書法」という書名です。

http://www.amazon.co.jp/Elements-Programming-Style-Brian-Kernighan/dp/0070342075

http://www.amazon.co.jp/プログラム書法-第2版-Brian-W-Kernighan/dp/4320020855

プログラムの記述のスタイルを述べているものですが、たしか、その著者たちが英文の書き方を述べた名著 The Elements of Style を引用していたように記憶しています。先日、手元にあったものを探したのですが、見あたらなかったので Amazon から購入しました。いくつか版があるようですが、私が購入したものは

http://www.amazon.co.jp/Elements-Style-Fourth-William-Strunk/dp/020530902X

です。懐かしく読んでいます。

日本語にもこうした教科書があるのでしょうが、適切なものを知りません。少し探してみたいと思います。

大学の国際化の目指すものは?

大学の国際化が話題になっているようです。国際化というのは、とくに最近、というわけではないのでしょうが、文科省で施策として競争的プログラムの公募があったり、国際的な大学ランキングのことが話に出るということもあるのでしょう。

一言で「国際化」といっても、目指すものは大学ごとに、また、大学内でも研究科や学部ごとに違うでしょう。分野によっても大きく違うことだと思います。個人はもちろん、研究室といった小さい組織では目指すものをはっきりさせることができるでしょうが、大学という規模になると、さまざまな考え方があって、ことばはよくないかも知れませんが、総花的になってしまいかねません。わが国の学生や教職員が国際的な場で活動するということもあれば、外国から学生や教職員を迎えて国際性のあるキャンパスにするといったこともあるでしょう。

大学はこれまでに十分な国際化をしてこなかったのでしょうか?なぜ、不十分だというのでしょうか?大学人はほんとうに国際的な活動をしていないのでしょうか?

分野にもよるでしょうが、私のまわりでは、教員はふつう国際会議に論文を投稿して発表に出かけるというのは日常的になっています。大学院の学生や研究員の人たちもおなじです。研究室には外国からの留学生の人もいますし、外国から研究者が訪れます。これが、目指す「国際化」であればそれでよいのでしょうが、最近、まわりでいわれる「国際化」はどうも、それだけではないようです。

英語の講義だけを受講して大学院の単位を取ることができるようなコースを作るとか、若手の研究者・教員を何ヶ月か海外に派遣する、といった目新しい(?)ことが始まりそうです。いずれも、トップダウンに、文科省がそのような計画の提案を大学や研究科から求めて、選定して経費を支援したものです。

これまでは、このような「国際化」はできなかったのでしょうか?何か制約があったのでしょうか?

いずれも、やろうと思えばできたことです。もちろん、やろうとするためには経費が必要だということもあるでしょう。それならば、その計画をもとに予算を要求するというのがボトムアップにで大学らしい進め方だといえますが、こうして経費を得ることが難しくなっていることは分かります。しかし、Curiosity-drivenの気質が身についている大学人が、自らが提案したとはいえ、枠にはまった形のTarget-orientedな国際化を推進するには苦労することでしょう。

個々の大学人が日常的な国際化に努めるのがいちばんだと思います。すべての講義を英語で受けなくても、英語の教材や論文を使った講義には留学生の多くが受講します。また、講義やセミナーでの学生のプレゼンテーションは英語でも日本語でもよいではありませんか。ずいぶん前から、私の研究室でのセミナーは日本語、英語が混在しています。火曜日の午後には、研究室以外にも声をかけてセミナーや講演会をやりますが、そこに日本語が達者でない研究者や学生も参加しますので、日本人も英語で発表し議論しています。もちろん、完璧な英語というわけではありませんが、専門を同じくする研究者仲間が研究上の交流をするのですから、それほど難しくはありません。このような雰囲気を作るというのが国際化の第一歩だと考えています。

まずは、できることをやることが第一歩でしょう。そのような活動は続きます。時限のある経費に基づく活動はどうやって継続するのか、今から考えておかなくてはなりません。目指すものはさまざまでしょうが、個々の大学人の意識と行動が基本だと思います。